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2022.07.15

お坊さんに訊く真言宗【教え編】~煩悩を、生きる力に変える真言密教~ 須磨寺・小池陽人さん

お坊さんに訊く真言宗【教え編】~煩悩を、生きる力に変える真言密教~ 須磨寺・小池陽人さん

 

「うちの宗派って何宗だっけ?」
「〇〇宗って結局どういう教え?」

いまさら聞けない宗派の疑問を
素心が丁寧に解決する大人気企画!
「お坊さんに訊く宗派シリーズ」

第2弾は
日本仏教界の圧倒的カリスマ
弘法大師空海が開いた
真言宗です。

お話を伺うのは
YouTubeでも大人気!
大本山須磨寺の副住職
小池陽人さんです。

ボリューム満載のインタビュー。
前編では
魅力あふれる真言宗の教えについて
大変分かりやすい言葉で
教えていただきます。

煩悩を生かせ?
誰でも即座に仏になれる?

奥が深くて、エネルギーあふれる
真言密教の神髄とその魅力に
ググっと迫ります。

真言宗の「真言」ってなに?

― 真言宗とは「真言密教」とも呼ばれています。言葉で説くのではなく、修行を通じてしか体得できないとされる「密教」を記事にするのはさぞ難しかろうと、早くも緊張気味です。一般の人にも分かりやすく言葉にしてもらうには「小池さんしかいない!」ということで、今日は須磨寺さんにお邪魔させていただきました。どうぞ、よろしくお願いいたします。

こちらこそ、よろしくお願いいたします。

― いきなりど真ん中についてお伺いしますが、「真言」って、いったい何ですか?

たとえば、お嫁さんが窓の掃除をしているところに姑さんがやってきて、そこを指でなぞって「きれいね」と一言だけ言い放ったとします。玉川さんはこれをどのように受け止めますか?

― 口では「きれいね」ですけど、本音はなんとも嫌味たっぷりな「まだまだね」かなと。

ですよね。普段われわれ凡夫が使う日常語というのは、ひとつの言葉でいろいろな意味に捉えられます。つまりそれは“迷いの言葉”とも言える。

― なるほど。

それに対して、ご真言というものは、ただ一つの意味しか持たない絶対的な“仏さまへの言葉”なんです。

― ただ一つの意味とは、どういうものですか?

「仏さま、あなたに帰依(※)します」という意味です。(※)全身全霊で信仰を抱くこと。

― なるほどです。須磨寺のご本尊である聖観世音菩薩さまのご真言は「オンアロリキャソワカ」だそうですが、これは「観音さま、ただただあなたを信じます」という意味なのですね。

はい。それ以外のどんな意味も持たない、純粋に聖観世音菩薩さまをお慕い申すためだけの言葉です。

須磨寺の小池陽人副住職

この世のすべては大日如来の教えの表れ

― 仏教にはたくさんの仏さまがおられますが、その数だけご真言があるのですよね?

はい。

― では、真言宗の御本尊である大日如来さまとは、どういった仏さまなのでしょうか?

大日如来さまは、宇宙のあらゆる万物の根源で、この世のすべての事柄は、大日如来さまの教えの表れです。普段私たちは、鳥のさえずり、風のささやきに何も感じませんが、実はそこにも大日如来さまの教えが隠されている。こうした深いところにセンサーを張って感じ取るために、真言密教の教えがあります。

― ということは、観音さまをはじめとするさまざまな仏さまも、もとを辿れば大日如来さま…?

そうです。大日如来さまの教えを、他の仏さまがいろいろな役割で担ってくれているのです。

大日如来

― この世のすべての事柄…。ということは、たとえばいまここに私が座っているこのイスも?

そうです、大日如来さまの表れです。

― そうですか。でも、正直なかなかそうは思えないです…。

ですよね。これまでに身につけてきた価値観や先入観を通して物事を見てしまうと、どうしても迷いが生じますし、何か別のものと区別したくなるものです。これらに惑わされずに平等に物事を見ていくためにも、ご真言をお唱えして、仏と一体の境地を目指す。これが真言宗の修行です。

― 平等に物事を見ていくのが真言宗の実践で、そのためのまじりけのない仏さまへの言葉がご真言、ということですか。

まさにそうです。そして、そこで大事になってくるのが「三密」です。

三密 手に合掌、口に真言、心を仏に

― 三密。コロナ禍でたびたび聞かされた流行語ですが、もとはお大師さまの教えなんですよね。

はい。煩悩を生み出す源泉となる身(身体)口(言葉)意(心)の3つを整えていくことを三密と呼びます。手に合掌して(身密)、口で真言を唱えて(口密)、心を穏やかにする(意密)。仏と一体になるためにこのような実践をくり返すことで、誰しもが悟りの境地を体得できると、お大師さまは仰っています。

― たしかに、手で仏さまを表し、口で仏さまの言葉をお唱えし、そして心も仏さまのように穏やかになれば、その時はもうすでに私も仏になれちゃってるかも。

真言密教では手で「印」を結びます。もっともポピュラーな印は、だれもが日常的にされている合掌です。

― なるほど。合掌も、印なのですね。

他にもさまざまな印があります。大日如来さまの印、聖観世音菩薩さまの印など…。

― 手で仏さまを表すことに、どんな意味があるのですか?

印の本当の意味というのは、掌(たなごころ)の捉え方だと思っています。掌は煩悩の象徴ですから。

― 掌が煩悩の象徴? なぜそうなるのですか?

私たちは生まれてくる時に必ず手を握って生まれてくる。赤ちゃんがこちらの指を掴んでくるのをゆっくり外そうとしても、すぐにまた「ぎゅっ」と握りますよね。

― たしかに!

われわれが生まれてきて最初に持つ欲というのは、掴む、握るという欲なんです。だって、目も見えない、耳もあまり聞こえない、母親が誰かもよく分かっていない中でも、手を握るということを本能的に行うでしょ。所有欲、握るという欲が、人間の根本の欲なんです。

― なるほど! 深く納得です。

その掌を合わせるのが合掌です。合掌をすると何も掴めないですよね。ですから、合掌はそのまま煩悩否定を意味します。

― 握りしめたこぶしは、何かに固執する自我にも、人を殴る武器にもなりますね。

真言宗の印はさまざまな仏さまを表しますが、煩悩を象徴する掌で仏さまを形作るところが真言密教の肝で。ここに「煩悩即菩提」の教えが表れています。

真言宗の教えは、欲望を生きる力に変えてくれる

― 煩悩即菩提。また難しい言葉が…。

煩悩とは迷いのことで、菩提とは悟りのこと。迷いがそのまま悟りになる、ということです。

― うーん…。それってどういうことでしょうか? もう少し分かりやすくお願いします。

煩悩や欲望って、良くないものに捉えられますけど、実は生きるエネルギーになるものです。

― たしかに、性欲や食欲も、それがないと私たち人間は生きていけないですもんね。

その欲望をうまく生かせればいいのですが、多くの場合、われわれは愚かですから、欲望に支配されてしまいます。

― はい。性欲、食欲、支配欲、達成欲、承認欲求…。

でも、その愚かさに気づくことができさえすれば、やがてそれを生命に生かすことができる。真言宗の考え方では、愚かだから価値がないとは捉えません。愚かなことに気づけたからこそ、謙虚になれて、感謝の気持ちが生まれ、この命をどう生かせばいいかという気持ちが湧いてきます。

― 平和や、健康や、商売繁盛など、私たちっていろんな欲望、つまり「ああなってほしい」「こうありたい」という願いを持っています。そう考えると、「護摩供養」という、願い事を書いた木を火にくべる儀式こそ、煩悩即菩提を表しているのでは…?

そうなんですよ! 「家内安全」「病気平癒」などと書かれた護摩木はまさに生々しい煩悩です。そして、護摩供養ではこの煩悩の書かれた木を燃料として、仏さまの智慧の炎を燃え盛らせます。煩悩は仏の火を通して智慧に変わることができるということです。

護摩供養の様子(画像提供:須磨寺)

― なるほど。深く納得です。

原始仏教では、悟りの障害となる煩悩を消滅させることを目指しました。煩悩を雑草に例えるなら、1本1本を摘みとっていく感じです。これに対してお大師さまの教えでは、摘み取るのではなく大きな大木を生やす。葉が茂ると下に光が届かず、おのずと雑草が枯れていく。こういう世界観を目指しています。

― 雑草(煩悩)対策の仕方もさまざまで、おもしろいですね!

ここで言うところの雑草が煩悩、つまり「小欲」です。これに対して「大欲」は人のためになりたい、支えになりたいという他者への欲望、利他心だと言えます。この大木を大きく茂らせていくことで、自己中心的な小欲はおのずと枯れていき、利他の心を大きくすることで、自分の命もどんどん生かされていくのです。

雑草(=煩悩、小欲)は、摘んでも摘んでもまた生えてくる。

大木(=利他、大欲)を大きく育てることで、太陽の光をさえぎり、雑草(=煩悩、小欲)を抑えることができる。

誰でもできる三密加持

― 手で仏さまの姿を表す。口で仏さまへの真実の言葉を唱える。ここまでなら見よう見まねで誰でもできそうです。でも、仏さまのように心を安定させる「意密」って、これが簡単にできたら誰も苦労しませんよって話です。どうやって、心を整えればいいのですか?

実は、これってそんなに難しく考えずに、シンプルに捉えればいいと思います。具体的に何を思えばいいかというと、懺悔と感謝です。

― 懺悔と感謝?

懺悔によって自分が愚かだと気づき、そこから前に進めることへの感謝が生まれる。それが意密の実践として大切なことだと思います。今ここにいることの感謝。大好きな人といられることの感謝。そういう感謝の心で祈るときに、おのずと意密は完成されていきますよ。

― うーん。シンプルなのに奥が深い。

ただ私たち人間は、普段色々なことを考えちゃいますよね。自我、人間関係、コンプレックス、思うようにいかないこと。こうした色々な考え(=煩悩)から一度離れてしまうことが大切で、そういう時こそ、修行者であるお坊さんに全てを預けちゃえばいいのです。だから極端な話、意密というのは、何も考えなくてもいい状態とすら思います。

― なんだか意密というと、滝に打たれたり、瞑想したりして精神を整えるものかと考えていたのですが、そうじゃないんですね。

もちろん、われわれ仏道を歩むことを決めた人間は、修行者として精進しなければいけません。でも、そうじゃない一般在家の方々は、自分たちの仕事や生活の中で真言密教の教えを実践できます。

― 合掌も、ご真言も、そして懺悔や感謝も、誰もがすぐにできることですもんね。

そうなんです。すべては大日如来さまのお恵みと感じて、日々を懺悔と感謝で生きていく。農家の方が、収穫物を大日如来さまの賜物だと感謝する。商売されている方が、お大師さまが守って下さっていると感謝する。これも立派な真言密教の実践です。

朝夕のお仏壇へのお参りがもたらすもの

― 大日如来さまのお恵みを感じるために、普段の生活の中で「こういうところから実践してみましょう」という提案などありますか?

まずは、お寺にお参りされるだけでもいいと思います。手を合わせ、ご真言をお唱えして、懺悔と感謝をするだけで、三密加持ができている。その瞬間は仏になっているんです。

― なるほど。これが即身成仏、ですか?

はい。ただしですよ、われわれはお堂を出た瞬間、すぐにもとの自分に戻ってしまいます。いろんな感情が巻き起こって三密がバラバラになってしまう。そういうものです。

― 愚かな生き物、人間。

そうなったらもう一度お寺にお参りして、仏に戻りましょう。帰る場所を大事にしてほしいですね。

― くり返しの実践、定期的なお参りが大事なのですね。

あと、おうちにお仏壇がある方はぜひ朝夕に手を合わせていただきたいですね。これも立派な三密行です。

― そうか。仏壇があると、家でも三密加持ができますもんね。

もしもお仏壇がない方は、素心さんで購入されるのがベストです(笑)

― 今日のお話で一番強調したいところですね(笑)

取材にうかがったのは令和4年4月1日(金)。平日にも関わらず、須磨寺にはたくさんの方がお参りされていました。


三密加持や、煩悩即菩提など、言葉にして説くことの難しい真言密教の教えの深い部分まで、かみ砕いて分かりやすく教えて下さいました。

後編の【仏事・仏具編】では、真言宗の仏事や仏具について、より詳しくお話し下さいます。どうぞこちらもご覧ください。

後編記事「お坊さんに訊く真言宗【仏事・仏具編】~お仏壇のある暮らしで、よき習慣作りを~」はこちらから!


▶大本山須磨寺HP

▶YouTubeチャンネル「須磨寺小池陽人の随想録」


取材・構成・文 玉川将人

撮影 西内一志

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