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坊さん、お遍路を考える|『マイ遍路』著者・白川密成さんインタビュー(後編)
歩き、祈り、
そしてまた歩き
一周したら
またふりだしに戻る
四国遍路。
道が聖地であり
道と道との間に寺がある。
お堂の前で
お遍路さんたちは
手を合わせて
大師と仏の名を呼ぶ。
1200年もの長い間
微動だにしない四国に
数えきれない人たちが
この島に引き寄せられて
ぐるぐるぐるぐる
歩いては祈りを
くりかえして来ました。
四国という磁場と
その魅力について、
密成さんと
さらにディープに迫ります。
"お接待"は、四国以外では信じられない文化
― 四国遍路はいろんな属性の人をごちゃまぜにして受け入れちゃうとのことですけど(前編)、宗教的にも多様ですか?
うん。さまざまですよ。仏教でもいろんな宗派の方がお参りされますし、クリスチャンの方も少なくないです。もちろん無宗教を自認されている方も。
― 本当に、人を問わないんですね。
そうですね。この懐の深さって、どこから来ているんでしょうかね。答えは出てないんですけど、四国のおもしろいところですよね。
― 古くから罪人など、いわゆる”アウトロー”の人たちの受け皿にもなっていたと聞いています。
そういう側面はあったでしょう。
― ぼくは20歳の時に野宿中心でお遍路してたんですけど、屋根の付いたバス停とか、東屋とか、野宿スポットでいろんな方と一緒になるじゃないですか。そうすると、中には横柄な態度の方もおられまして。地元住民の方と揉めた挙句に警察沙汰に巻き込まれたこともありました(笑)。
それはそれは、大変でしたね。今でも時々「自分は遍路だからどこでも泊まっていいんだ」という態度の方はおられますが、根本的な勘違いです。修行者だからこそ、謙虚であるべきではないでしょうか。でも、あらゆる人々を受け入れてきたというのも、四国遍路の貴重な歴史です。
取材は栄福寺庫裏、密成さんの書斎をお邪魔して。
ー 懐の深さ、おおらかさの象徴が、きっと四国遍路における「お接待」(お遍路さんへのおもてなし)ですよね。
うん。まさにまさに。
ー どこの誰か知らない人に、ただその人がお遍路をしているということだけで、お金や、寝床や、食べ物や、いろんなものを無償で分けて下さる方が四国にはたくさんいる。本当に、四国以外では信じられない文化だと思います。
しかも、お接待をする人って、年齢を問わないんですよね。栄福寺でも、わざわざお寺に来てお接待して下さる方がおられます。毎日5食分くらいのお弁当を作ってお接待されるおばあちゃんもおられましたし、歩き遍路を経験したという30代ぐらいの女性の方がコーヒーやお菓子のお接待をして下さりもします。
ー お遍路さんのために、時間や労力を惜しみなく費やしている、そのことが尊いです。
共通しているのは「してあげてる」というんじゃなくて、「させてもらっている」という感覚でされている点ですね。不思議とみんなこのことばを言われるんです。きれいごとではなくて、「実感」なんでしょうね。
ー うんうん。
その上で、「あんたが誰か知らんけど」っていうのが、お接待の肝だと思っています。
あんたが誰か知らんけど、これどうぞ
ー なんか話がどんどん深くなっていく予感がしますね。続きを聞かせて下さい。
「あんたが誰か知らんけど、これどうぞ」って普通できないですよね。どこのだれか分からない人に、お金や、時間や、手間を、無償で差し出すって、きっとお遍路やお接待という伝統に包まれているからこそできることなんじゃないかなあと。
ー たしかにそうですね。しかも、本来自分が持っているものを相手のために手放すって、いわゆる”お布施”そのものです。
そうなんです。いまの時代では葬儀や法事の際に僧侶に対して渡されるお金のことをお布施と呼ぶことが多いですが、本来はこうした自分の時間やお金などを誰かに分け与える営みそのものを布施というのではないでしょうか。そのことによって、お接待をする側もされる側も、あたたかさで心が満たされるというね。そこには、仏教が本質的に持つ「自他を越える」という実感があるのかな。机上の論理ではなくて。
ー 歩くこと、祈ることも修行ですけど、お接待をすることもされることも修行。お遍路には、仏教の本質がてんこ盛りですね。
「誰か知らんけど」っていうスタンスは、これまでの人生でどんな歩みをしてきたかを相手に問うていません。積み上げてきたものに執着せずに自分や他者の自我を解き放つことは、どの時代にも通底して流れている仏教の本質そのものですよね。
ー どこで生まれて、どの学校を出て、どの会社で働いて、どんな家族構成で、どんなことを成しえてきて…。四国遍路をすることで、こうした社会的な価値みたいなものが一時的に解き放たれ、このときこの瞬間のご縁を大事にする。いやあ、すごいです、お遍路って。
「あんたが誰か知らんけど」という前提のもとで行われる「これどうぞ」っていうのは、いろんな鎧を脱いだあとの、いま目の前にいある素のあなたをも認めますよということですよね。たった一瞬でも従来の価値観が180度転換される。「もうなんか泣けてきますよ」と実際に涙を流される方も多いです。
白川密成さん
ー あと、いま密成さんの話を聞いてて思ったのは、「あんた誰か知らんけど」ってのは対外的な話だけでなくて、自分自身との向き合い方にも言えることだと思うんです。
うんうん。
ー 自分自身のアイデンティティというか。近代以降の個人主義って、自分がどう生きるか、自分が何をしたいか、自分が何者なのかっていう自己規定を自分でしないといけないじゃないですか。これって結構、いやかなり、しんどかったりします。
はい。
ー お遍路さんでいる瞬間、自らを規定しなければならない呪縛からも解き放たれる。そして、そんな何者でもない人たちを自然に受け入れちゃっているのが、お接待という文化なのかもしれません。
きっとそうですね。
― 『マイ遍路』の中で、「遍路をしている理由を安易に聞かないという不文律がある」と書かれています(259ページ)。それも同じことなのかなあと。
表層的には、「人のプライベートに踏み込まない」ということで、これもありがたいことですが、そのマナーの奥には「あなたの我と付き合っているんじゃない。あなたのパーソナリティを超えたところで、いま、ぼくらはつながっていますよ」という本質があるのかもしれませんね。お接待も「あなたの我」に布施しているわけではない。あなたが遍路で向き合おうとしている仏性、大師、仏さまにお布施しますということですものね。あるいはその努力、精進に対して。
(写真提供:白川密成さん)
ぼくたちの住むこの世界が、圧倒的な生命力と美しさを持つことを思い出すように、人は繰り返しこの四国を訪れ、大師と仏の名を呼ぶ。それはあらゆる生物と無生物と仏を抱えた我を呼ぶ声でもあるのだ。(『マイ遍路』243ページより)
動かない、それが四国
ー 四国に来ると、あらゆる価値がひっくり返ります。乗り物に乗らずに歩いて移動する。見ず知らずの人にお接待をする。自分が何者であるかが問われない。本当に不思議な場所です。
ぼくは真言宗の僧侶ですけど、一方で念仏や坐禅を時々うらやましいと思うのは(笑)、これらって、ポータブルなんですよね。自宅でも、四国でも、ニューヨークでも、いつでもどこでもできてしまう。
ー ああ、なるほどです。
それに比べてみると、四国は動かしようがない(笑)
ー 四国遍路は、四国に来ないと、できないですもんね。
そうなんですよ。
話が深まるごとに、ことばを丁寧にひねり出そうとする密成さん。思索する時には思わず手が頭に伸びる。
ー 善通寺の菅管長猊下がインタビューの中でおっしゃってたんですけど、聖地って普通はお寺などの特定の場所を指すじゃないですか。
そうですね。
ー でも、四国の場合は「寺と寺をつなぐ道こそが聖地だ」と。四国全体が、もはや聖地なんですよね。
『マイ遍路』の中で「動く宗教行為」と表現した箇所があるんですけど(180ページ)、人類は、長い長い歴史の中でずっと、歩き、移動して、そして祈ってきました。当たり前すぎることですけど、四国が動かないから、ぼくたちはその上を歩くことができるんですよね。そう考えると、お遍路って、四国全体を使った祈りだと言えます。
四国を歩いていると、随所に「道こそが聖地」であることを痛感させられる。(画像提供:白川密成さん)
ー スケールが大きすぎます。でも、いまぼくたちは、「四国は動かない!」っていう当たり前すぎる話でまじめに盛り上がっていますね(笑)
でも、その当たり前のことがとっても大事。いまの時代って、いつどこにいても何だってできると思い込んでいる人もいる世の中です。それは、なんというかな、かなりもったいない。だからこそ、四国に来ないと始まらないという、身体性や土地性を伴った祈りや、移動すること自体が魅力的なんじゃないでしょうか。
僕たち人間は、何万年もの間、今とは比べものにならないほど「歩き」、「祈り」、「移動」してきただろう。心身に刻まれているその記憶が、歩き遍路によって呼び戻されるような感覚がある。(『マイ遍路』180ページより)
祈ることで、ふりだしに戻る
菅猊下がおっしゃってた「道こそが聖地だ」というのもその通りで、その中で道と道の間にお寺があるって、そのことも大事なポイントなんです。一息つき、足も休ませて、何よりも祈ることができる。うん。祈りって、やっぱり人間が大昔から行ってきた変わらない営みですからね。
ー これまでのお話をふまえて、密成さんにひとつ質問が浮かんだんですけど…。祈りってどうして大切なんですか?
と、言いますと?
ー ここ最近、地方移住とか、ソロキャンプとか、登山とか、自然に触れる商品やサービスが人気じゃないですか。
はい。
― また一方で、坐禅や瞑想やカウンセリングなど、自己に向き合うものもたくさんありますよね。
そうですね。
ー お遍路の中にも、「自然に触れる」「自己に向き合う」という要素はしっかりと含まれています。では、他にはなくてお遍路にこそあるのが、祈りではないかと。
たしかに。自然を歩くだけだったら、日本一周とか、百名山を巡るとかでもいいわけですもんね。
ー そうなんです。お遍路には祈りがある。ここはかなり重要じゃないかなと、感じてて。その点について密成さんはどうお考えなのかなあと。
お遍路中の密成さん。(画像提供:白川密成さん)
うーん、そうですね。さっきもお話した通り、人間って有史以来、祈るという営みをずっと続けてきたと思うんですよね。仏教が生まれる前から、お大師さんが生まれる前から、人間は祈り続けてきた。
ー うんうん。
だから祈りって、きっとなにかをゲットするためにあるというよりは、本来のありように帰るというか、ふりだしに戻る、という感じがしますね。
ー ふりだし!おもしろいです。
これは『マイ遍路』にも書いたんですけど、仏とコネクトする(繋ぎ合わせる)ためと言うよりは、すでに仏とコネクトしていることに気づくため、という感覚があって…。
ー はい。
お遍路では、札所のお参りが済むと次の札所に行きますよね。この、「行く」というのは、実は「帰る」ことと一緒じゃないのかなという感覚があります。
ー むちゃくちゃ奥が深くて、おもしろいです。密成さんは『マイ遍路』の中で、般若心経の「羯諦羯諦」に言及されてますけど(80ページ)、あれも同じようなことですか?
そうですね。真言密教の大家で、ぼくも大変お世話になった松長有慶先生は、「羯諦」には行くと帰るのふたつの意味があると書かれています。
ー たしかに、帰るっていうのは、「帰る場所に行く」ってことですもんね。
そうそう。さっきのネガとポジの話(くわしくは前編へ)じゃないですけど、行くも帰るも切れてなくて、つながっているんですよね。円環になっている感覚です。
ー 円環というと、まるで四国遍路みたいですね。だって、お遍路さんはゴールの88番を目指して歩いて「行く」わけですけど、その次はまたスタートの1番に「帰って」しまうという。それをぐるぐると何十何百と延々とまわり続ける人もいるわけで。
しかも、ただ同じ高さでまわっているんじゃなくて、螺旋になっている感覚です。まわるごとに高みに上ったり、逆に奥深いところまで沈んだり。
ー まわるごとに強度が増していく感じがあります。
この「まわる」というのが四国遍路のおもしろい魅力ですよね。世界の巡礼について研究している方のお話を聞いてみても、ぐるぐるまわる巡礼道って本当に珍しいらしいですよ。
ー だからこそ、スタートもゴールも自分で決められますよね。ぼくは山口県生まれなので、フェリーで松山まで渡って、53番からお遍路を始めました。しかも45番の岩屋寺さんに行きたかったから、そこから逆打ち(反対方向、半時計周りを歩くお遍路)にしましたもんね。
そういうお参りの仕方もありますよね。いつ始めていつ終えてもいいし、どこから始めても構わない。歩きでも、車でも、自転車でも。「あんた誰?」も問わないし、お参りが僕のように長い人もいれば、ぱっと手を合わせるだけの人もいる。四国遍路って、本当におおらかだなって、思います。
密成さんとの2時間半。話を伺いながら、20年前の遍路の記憶がまざまざとよみがえり、その思索は、まさに螺旋のように上り、沈み、強度を強めていった。
【初心者必見!】密成流 お遍路さん入門講座
ー ここまでとってもすてきでディープなお話をありがとうございました。最後に「なんだかお遍路したくなってきたぞ」という読者の方々に向けて、密成さんなりのアドバイスがあれば、ぜひともお伺いしたいです。
そうですね。今日はちょっと哲学的な話も多かったのですが、もっと気楽に日々の暮らしやお仕事の中で、「なんか変だぞ」「バランスが崩れてるぞ」「整えたいぞ」といった方は、ぜひ四国に来てほしいなって思います。
ー それは、どうしてですか?
自然に触れる、歩いてみる、お寺でお祈りする。実はこれがふだんなかなかできないことだけど、四国遍路にはそれしかない(笑)
― 本当に、それしかなかったです(笑)
大昔から人間がやって来たこれらの営みを少しやってみるだけで、体や心が整ったりすると思います。都市だけではなく自然にどっぷりつかる。車だけではなく歩く。そして、聖なるもの、神仏に祈ることって、やっぱり現代人にも必要だったりするんです。
取材後、持参の『マイ遍路』にサインをいただく。
ー となると、歩き遍路が望ましいですか?
いえいえ。これが大事なところなのですが、そんなことはないですよ。自動車、自転車、バスツアー、方法はどれでもいいんです。車のお遍路でも結構歩きますからね。おすすめなのは、まずは車でお参りしてみて、気に入ったお寺があればその前後を少しだけ歩いてみる。日帰りでも、一泊二日でもいいと思います。
ー 『マイ遍路』の中でも、歩き遍路を特権化するのはよくないみたいなことを書かれていましたよね(40ページ)。
はい。1300キロを歩いている姿を見て「わあ、すごいな」と思うのは自然なことだと思います。でも、「歩いているわれこそが真実の遍路だ」と思うのは、違うかなと。むしろ、車には車のよさがあって…。
ー それは、どんなところですか?
歩いていると、逆に時間に追われちゃうんですよね。時間までに宿に入らなくちゃとか。
ー ああ、なるほど。
あと、歩きだと荷物を軽くしたくなりますけど、車だとその必要がない。だから、昼は札所をゆっくりお参りして、夜は宿で仏教の本をじっくり読む、みたいな参り方もできますよね。
ー はいはい。なるほどです。
せっかくのお遍路ですから、巡礼服を身に着けるのもおすすめです。白衣着て、袈裟を掛けて、数珠を持って、編笠被って…。そうやって身なりを整えることで心のスイッチが入りますし、まわりの人もお遍路さんだと見てくれますからね。
ー お参りの仕方は自由である一方で、形から入ることのよさもあるのですね。
そうですね。あと、ぼくの知り合いが奥様を亡くされて、男友達とふたりで供養の車遍路をしたんです。帰ってから「遍路中に毎日、夜に飲みに行くのが楽しみで」という話をしてくれました(笑)。地元の酒も魚も美味かったでしょう。積もる話もあったでしょう。それも大切な四国遍路ですよね。
ー 今日は本当にありがとうございました。ぼくからのおすすめは、まずは密成さんの『マイ遍路』を買っていただいて、それを携えてお遍路さんをしてもらうことですね。
それはそれは、ありがとうございます(笑)
1977年生まれ。第五十七番札所・栄福寺住職(愛媛県今治市)。真言宗僧侶。高野山大学密教学科卒業後、書店勤務などを経て、2001年より24歳で住職となる。同年から2008年の7年間、糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」にてエッセイ「坊さん。」を231回にわたって連載。2010年のデビュー作『ボクは坊さん。』(ミシマ舎)は、2015年に映画化。その他の著書に『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』(ともにミシマ舎)、『空海さんに聞いてみよう。』(徳間書店)などがある。
取材・文 玉川将人
撮影 粟生密有