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答えのないことを考えることのカッコよさ|若新雄純、僧侶への想いを語る in 武田正文の仏心チャンネル(後編)
浄土真宗の僧侶となった
若新雄純さんと
臨床心理士の
お坊さんYouTuber武田正文さん。
対談の後編では
個人の内面の問題から
テーマはさらに大きく広がり、
現代社会の中で
仏教がどのように
私たちの救いとなれるのか
その可能性に迫っていきます。
「こうあるべき」という
正しさを疑うその姿勢は
お釈迦様から親鸞聖人を通じて
現代にまで受け継がれています。
※この対談は、令和4年2月26日にYouTube『武田正文の仏心チャンネル』内にて特別配信されたものを、素心『こころね』が取材、記事化いたしました。
「そういうのもアリ」を貫く
武田正文さん(以下:武田) コロナ禍で社会を取り巻く環境も大きく変わりました。コロナ禍という観点で思うことはありますか?
若新雄純さん(以下:若新) 地上波のテレビ番組でも、今は当たり前のようにリモート出演が行われていますが、かつては絶対にありえなかった。コロナ禍によって生じた「仕方ないからこれでやろう」という機運からいろんなことが可能になって、やがて「そういうのもアリだよね」と当たり前になってきましたよね。
武田 そうですね。仏教界でもオンラインを用いた法要などがあちこちで見られるようになりました。
若新 この、「そういうのもアリ」が僕はとても大事だと思っていて。コロナ禍では社会全体でそうした事例がいくつかあったと思いますし、実はこれって浄土真宗の救いのメッセージのひとつでもあるような気がします。
武田 鎌倉時代にこれまでの仏教をひっくり返した親鸞聖人はさまざまな非難や弾圧にあいながらも肉食妻帯を貫かれて、その教えやスタイルもやがては「そういうのもアリ」と受け入れられていきました。
若新 こんな人間がこのままの姿で僧侶になったことも「そういうのもアリ」と思ってもらえるかなと。僕が頭を丸めることなく僧侶になれたのも、浄土真宗の自由な解釈を受け入れる土壌のおかげだと思っています。
武田 最近では、本堂のライトアップ、プロジェクションマッピングによる極楽浄土など、みんな色んな挑戦をしています。でもまだ模索中。今の時代にあった「これっ!」という方法が分からないんですよね。
若新 まあだから大事なことは、多くの人がいろんな形を見た上で、「正解なんてない」ということに気づけることではないでしょうか。むしろ「こうじゃなきゃいけない」という絶対の押し付けの方が、これまでもこれからも、人々を苦しめますから。
若新雄純さん。話は大いに盛り上がり、21時半から始まった対談は深夜0時近くにまで及んだ。
武田 参加者の方の中から「若新さんは髪の毛も染めて、X JAPANもお好きで、ロックなお坊さんですね」というコメントもいただいています。
若新 もしも親鸞聖人が生きておられたらきっと許してもらえるんじゃないかと勝手に解釈しているんですけど。
武田 親鸞聖人はきっとロックな人がお好きですよ。僧侶は職業じゃなくて生き様ですから。お寺の法事や葬儀を行っている人だけが僧侶ってわけじゃないですもんね。
若新 いろんな人に僧侶になったことを話すと、「遊び半分なのか」「ファッション感覚でやらない方がいい」とか言われることもあったんですけど、言われれば言われるほど、もう100%の遊びとして、ガチのファッションとして取り組もうと思い始めたんですよね。
武田 これまでも、ニートが会社役員の「NEET株式会社」、女子高生が市政に参加する「鯖江市役所JK課」といったように、社会の常識を「そういうのもアリ」の姿勢でひっくり返していった。僧侶としても「そういうのもアリ」を貫こうと。
若新 はい。みなさんがどう捉えるかはさておきですけど、少なくとも僕を得度させてくれた山元派の門主さまは、ファッションという僧侶スタイルが正しいか正しくないかではなく、「若新さんはそう考える、そして山元派は否定はしない」という感じで受け入れて下さいました。
武田 正しいか正しくないか、ファッションか真面目かを分けるのも人間の計らいですよね。私もそこを取っ払っていくのが仏教かなと思います。
若新 もちろん賛否両論あると思います。でも何が正解か、何が間違っているかを超えることが大事だと思っているので、そういう声もあるよなって想いながらいろんな先輩僧侶の方々のご意見を聞いて、さらに悩もうと思っています。
ない答えを求める“自己啓発難民”たち
若新 現代人ってすぐに答えや正解を求めてしまうんですよね。これが苦しみを増幅させていると思うんです。
武田 はい。
若新 禅宗のお寺で行われる坐禅会に参加すると「やり方が分からない」「煩悩の抑え方は?」のような質問をする人がいる。どのお坊さんも、意味や答えよりも座るという体験そのものの大切さを話すんですけど、すぐに答えが出ないと耐えられないみたいで、これは苦しいなあと思いましたね。
武田 そうですね。
武田正文さん。仏教と心理学をつなぐ取り組みを精力的に行われています。
若新 いま自己啓発セミナーにはまる人たちがたくさんいますけど、仏教なら彼らを受けとめられると思っています。自己啓発そのものは人生のライフキャリアを成熟させるために大事だと思うんですけど、やっぱり参加者が明確な答えを求めているところに苦しみが生まれる。
武田 なるほど。
若新 そして主催者側もお金を取っているから、「これをやるとこうなれる」と、きちんとした理由と結果があるものとして、むりやりな説明をする。そしてそれを聞いた参加者は結果を出さなきゃと焦る。答えなんてないのに、答えがあるように見せて消費させ続けるというのは本当にさもしい。仏教なら、「すぐに答えを見つけなきゃ」という考え方から救うことができると思います。
武田 いまの若新さんのお話はものすごく共感します。私自身も自己啓発に代わることを仏教ができないかなと考えていましたから。
若新 仏教には長い伝統があるから、お寺に通っても家族や周囲も安心しますし、巷にはびこる自己啓発セミナーよりも安く済む。実際に僕の友人がセミナーに支払った金額よりも、僕が得度を受けた時にかかった法衣や袈裟などのもろもろの費用の方が安かったですから。
武田 そうでしたか(笑)
若新 そして何より大事なのは学び合える仲間が見つかるということ。今日だってただの末端の僧侶になっただけなのに、こんなにたくさんの人が集まって下さった。仏教には日本全国津々浦々につながるネットワークがあります。
自意識。ロック。うじうじ考えることのカッコよさ
武田 参加者の中から仏壇やお墓の重要性について質問が来ています。また高校教師をされている方から授業で死を扱うことの難しさについてコメントが来ています。若新さんは「死」の問題をどう捉えてますか?
若新 死はカルトじゃない。人間にとって必ず訪れること。それを念頭に置いた教育はすごく大事だと思っています。
武田 現代の教育は死を正面から扱えないですよね。
若新 それは死んだあとのことについて分からないことが多すぎるから。それこそさっきの話ではないですが、明確な正しい答えをきちんと教科書に書かなければならない現代教育の限界だと思います。
武田 死の問題は、葬儀や法事を通じて考えていけますよね。そしてそこには必ずお坊さんがいる。
若新 そうです。僕は高校生の探求的な学びのプログラム(全国高校生 MY PROJECT AWARD)のお手伝いをしていて、その全国大会の審査員をしています。その中でたまに死を扱う人がいて、あれはもっと増えていいと思う。でも発表内容を見ていると、もっと深めていけるはずの探求がどうしても浅い。
武田 死生観については、学校の先生ではきっと限界があるんでしょう。
若新 だからこそ、探求的な学びの伴走者として地域のお坊さんがいてあげたら凄くいいと思うんですけどね。
武田 死はこわいから敬遠されがち。でも一方でカッコよさと紙一重でもある。たとえば一休さんと骸骨。ロックバンドのドクロ。モチーフがどっちも同じ。カッコつける仏教って、あながち間違っていないのかもしれません。
アニメ『一休さん』のモデルとなった臨済宗の僧侶・一休宗純。数々の破天荒な逸話を残す。著書に『一休骸骨』。杖の頭にドクロをしつらえ「ご用心、ご用心」と練り歩いたと言われている。(画像:Wikipediaより)
若新 いま話してて思ったのは、僕が「ファッション」と表現したのも、なんかすごい究極的な大人のたしなみ的なことなのかもしれません。スタバでコーヒー頼んで大人になった感覚と同じように、答えが出ないことを自分の中に所有し続けていられるということがカッコいいんだぜみたいなことを、なんか高校生、大学生なりに教えられたらいいなと思うんです。みなさんからしたら失礼な話かもしれませんけど。
武田 そんなことないですよ。よく分かります。
若新 学校では生徒たちに時間内に正しい答えを導き出すことを求めます。本屋さんに並ぶビジネス書にも「秒で答える」「すぐに〇〇できる50のコツ」なんてのがあふれています。現代の大人たちは超重要な大人のたしなみがない。酒、タバコ、コーヒーは飲めても、答えが出ないものを考えられない。ファッションであれ、本質的であれ、考える奴ってカッコいいんだっていう世の中になればいいなと思います。
武田 考えても答えの出ないテーマの究極が死の問題。そして自分を生きるという問題。死と生は、まさに仏教の領域です。
若新 X JAPANのYOSHIKIの書く歌詞はすべて昔自殺したお父さんへの想いなんです。なんでオレを置いて死んでいったんだということがひたすら書かれていて、どうしようもないことを考えてしまう姿にたくさんの人が魅了されたし、僕もそんなYOSHIKIをカッコいいと思っているんですよね。ズバッと答えが言える。考えても仕方のないことを切り捨てる。こういう姿勢では人は救われないと思う。自分の人生を生きるというどうしようもない苦しみを味わうことがカッコいい生き方なんだみたいな。僕が僧侶になったのは、それを日本人なら誰にでもなじみがある仏教の文脈で体現してみたいと思ったからなんです。
武田 今夜は若新さんがなぜ僧侶になったのか、どんな問題意識を持たれているかを深く知ることができました。また是非次の機会も設けたいですね。
若新 僕の方こそ末端の僧侶がこんな場所にいさせてもらって恐縮です。また是非呼んでもらえたら嬉しいです。ありがとうございました。
武田 こちらこそありがとうございました。なまんだぶつなまんだぶつ。
世の中が複雑化し、手軽な答えをすぐに求めがちな社会だからこそ、時間をかけた深い探求を通じて、自分の中のブレない軸を持つことが幸せに生きるためには大切です。
2500年もの長い時間をかけて人々の迷いや苦しみに寄り添い、形をしなやかに変えてきた仏教の力がいまこそ私たちの支えになってくれる、そんな可能性を感じさせてくれる対談でした。
前編がまだの方は、どうぞこちらからお進みください。
『こんな自分を受け入れて生きていくために|若新雄純、僧侶への想い in 武田正文の仏心チャンネル(前編)』
▶若新雄純プロフィール
浄土真宗山元派 證誠寺僧侶。株式会社NEWYOUTH 代表取締役。慶應義塾大学 大学院政策・メディア研究科 特任准教授。国立福井大学 産学官連携本部 客員准教授。著書に『創造的脱力~かたい社会に変化をつくる、ゆるいコミュニケーション論~』(光文社新書)。「ワイド!スクランブル」(テレビ朝日)「ABEMA Prime」(AbemaTV)などメディア出演や講演実績多数。
▶武田正文プロフィール
浄土真宗本願寺派 高善寺副住職。臨床心理士。スクールカウンセラー。広島大学客員講師。YouTubeチャンネル「武田正文の仏心チャンネル」はチャンネル登録者数1万人越え。
構成・文 玉川将人