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2023.11.25

一度亡くなったこの命を何に使うのか|『小野龍光トークライブ ㏌姫路』全文公開(後編)

一度亡くなったこの命を何に使うのか|『小野龍光トークライブ ㏌姫路』全文公開(後編)

 

成功していない
という自覚と
成功者として見られたい
承認欲求に
苦しんだ前世。

ご縁に引き寄せられて
インドへ、そして出家。

自らを
「一度死んだ身」
と呼ぶ龍光さんは
その命を
何に使うのか。

小野龍光トークライブ in 姫路
後編は
「使命」についてです。

 

※前編がまだの方はこちらからどうぞ。

我を捨てて、他を生かし、人を利し

さてさて、話を冒頭にお戻しいたしますね。

「使命」というちょっと大げさなテーマなんですけども、元々、自分の命の使い方を振り返ってみたときに、気が付けば資産、地位、名誉、売上の規模といった、自分の外側にあるものばかりを追いかけていたのではないかということに、得度をしてから気づきました。

なりたいものを目指すことはすごく大事なことですし、それは決して悪いことではありません。でも、なりたいものって、なった瞬間にその目標は消えてしまいますし、社会の情勢や自分の中の価値観によって変わってくるものですよね。

前世の自分は、なりたいものという姿、いわば「点」を追いかけることはあったにせよ、自分がこれからどのように歩んでいこうかという方向性や「道」のようなものについてはあまり考えていなかったのではないかなと、思うんですね。

インドに入って間もない頃、佐々井上人は次のような手記を残しています。1974年3月なので、わたしが母親のおなかの中にいるころです。

一切の人の為に我を捨てよ
本来我には
生命もいらず
名声もいらず
名誉もいらず
財宝もいらず
地位もいらず
他を生かし
人を利し

佐々井上人という方は、本当にひたすら他人様のためだけに生きてらっしゃるというのは、身近にいてもたくさん感じるんですけども、ひたすらその生き方を貫く。これこそが佐々井上人の「道」なのでしょう。

今まで外面ばかりを求めて生きてきたわたしも、佐々井上人がされているように、とにかくもう自分のことはいいのだと、他人様のためにこの命を使うんだと、決心しました。

モノを貯めない生き方

決心をしたはいいけれど、じゃあ具体的にどうすればいいかなんて、何もわからないわけです。

とりあえずできることとして、所有しているものをすべて他人様に譲るところからスタートしよう。いまのぼくの荷物は、着替え、パンツ、洗面具、Macbook程度で、なるべく物を持たない生活、あるものだけ何とかする生き方にしました。

龍光さんの持ち物(画像提供・小野龍光さん)

お金も必要最低限しか持たず、お金の上限を108万円に設定しました。これは煩悩の数なのですが、それでも多すぎるなと思い、いまでは76万7600円、「南無南無」ですね。これを上限に1円たりとも持っていません。一度だけこれを超えたことがありましたが、超えたお金は即座に佐々井さんにお送りいたしました。

今日のような講演会などの場合は時間に遅れてはいけませんので、交通手段のご用意をいただくこともありますが、そうでなければ、移動も極力徒歩でというルールにしました。

四国遍路の際も、袈裟、編笠、錫杖とわずかな荷物だけで、歩いて一周した。

ライブ当日、素心に向かいながら講演用スライドを編集する龍光さん。車での送迎やWi-Fiすらを「お接待」として、有難がるのが印象的だった。

あるものの中だけで生きていく。溜めずに流す。いまはこれすらも多いと思ってるので、「thank you」の39万円なのか、10万8000円なのか、さらに上限を下げて、順調にゼロに近づけているところです。

あとは地位、立場というものも捨てようと決めました。インドで得度をして日本に帰ってきて、各宗派のいろんな僧侶の方にお会いさせていただいて、日本での修行の場所を探しましたのですが、結論、どこのお寺、どこの宗派にもあえて所属しないと決めました。佐々井上人にも相談したら「それでいい。そのままでいい」とおっしゃっていただきました。だから本当に、ただのさまようだけの無職のハゲ坊主なんです。

佐々井上人からおっしゃっていただいたのが、衣を着て日本を行脚しろということで、四国遍路をさせていただきました。7月29日から9月6日まで、約1200キロを全部歩いて参りまして、そこでもさまざまなご縁をいただくことができました。本当にありがたい限りです。

遍路中の履物は基本サンダル。100円ショップのサンダルで歩いた区間もあるという。筆者も歩き遍路を経験したからこそ、その脚力とメンタルのすごさが分かる。

でも、ただモノを持たないだけでは他人様のお役に立つことはできないと思いましたので、WEB上に『龍光ポスト』という、どんな方でもメッセージをいただける窓口をひとつだけ作りました。

こんな自分でお役に立てそうだったら何でも努力させていただきます。今日のこの場もそうですし、講演活動だけではなくて、トイレ掃除でも、庭掃除でも、何でもやらせていただこうと。

成長を追い求めることの弊害

よくこういう話をすると、特に若い人たちからは「欲を持ってはいけないんですか」「成長はダメなことですか?」みたいなことを聞かれるんですが、そんなことはありません。

人間は欲があるからこそ成長できます。希望があって、理想があって、欲があるからこそ大きく育っていこうとします。

そうである一方、やはり事実として、成長による弊害があると思うのです。

内閣府の調べによりますと、実に国民の7割は悩みや不安を感じていて、心が満たされていないそうなんですね。

日本は世界3位の経済大国です。物もあふれていて、物質的に困ることはないはずにもかかわらず、どうして「満たされてない」っていう声が多いんだろうと。そして、自分自身も実際に満たされていなかったわけです。

あと、こちらは前世のころから懸念してたことなんですけれども、これはホモ・サピエンスの人口のグラフです。たった数百年の間に人類の人口が急上昇しているんですね。

人類誕生から2050年までの世界人口の推移(推計値)グラフ(出典:国連人口基金駐日事務所ホームページ)

これを見ると現代がいかに異常事態であるかが、直感として分かると思います。

人類は膨れすぎています。果たしてこんなに膨張してしまってどうするのだろうかと。地球環境は悪化し、経済格差も起きています。最近の日本を悩ませる線状降水帯も地球温暖化の影響によるものです。

なりたい姿があるから成長してきた。それはたしかに事実だと思います。ただ、人口がこれだけ膨らむ中で、さらに物質的な成長や数字上の成長を追い求めると、地球はきっとめちゃくちゃになる。これはもう、自明の理ですよね。

20ルピーに添えられた花びら

物質や数字の成長以外にぼくたちは何をすべきだろうか。これは、前世のころから抱いていた悩みでした。

その答えのヒントになるようなものが、インドの旅の中、とある出来事の中にあったように思います。

というのも、僧侶になってわずか数カ月の高橋くんが、インドではじめてお布施をいただくんです。貧しいおばあさんからのお布施は、20ルピーという金額、日本円にして30円か40円程度の小さな小さなお金です。

高橋くんは「いらない、いらない」と拒むのですが、おばあさんは有無を言わさずお布施を手渡す。そして、彼の足元で頭を床につけて礼拝をして、非常に幸せそうな顔をしてらっしゃるんです。

感動したのは、あとから紙幣を広げてみると、中に花びらが添えられていたことです。

紙幣の中に添えられた白い花びら(画像提供・小野龍光さん)

20ルピーもあれば、孫におやつを買ってあげられます。それに、花びらを入れる手間なんて、費用対効果で考えたら必要ないわけです。ここには、数字やお金では代えられない、真心や心遣いが詰まっているのだと思います。


衣を着る浄久さんに額を付けて礼拝する老婆。お布施の中には花びらが詰められていたシーンは、思わず涙を誘う。
『【JQ QUEST⑱】2000年超!? 歴史がひっくり返る😱 伝説の遺跡を探し出せ❗』より

物質的には、日本と比べても非常に貧しいかもしれない。けれども、ナグプールのみなさんは実に幸せそうに生き生きとした顔をしています。

そういう姿に触れて改めて思うのは、お金や物質や立場といった鎧を必死に揃えることよりも、中身をどう満たしていくかの大切さです。

そのための手段は、決して信仰とは限りません。信念だとか、使命だとか、何でもいいんですが、その内なる自分をどう磨いていくか、内なる中身をどう成長させるかということ。これだけ物質的に満たされているはずなのに、心が満たされてない方が多いとされる日本や先進国において、おばあさんのお布施に添えられた花びらは、幸せに生きるためのひとつのヒントになりうるのではないかと考えます。

自分一人で成し遂げることなんて、ない

改めて、得度をして、いろんな物を捨てて、物を持たない生活をして感じるのは、自分は自分だけで生きていないというシンプルなことです。

お遍路の最中も「1200キロを歩いてすごいですね」とか言われるんですけれども、たまたま両親から健康な身体をいただいただけです。

この国も、80年ぐらい巻き戻すと、たくさんの人が血と涙を流しながら、祖国の平和のために戦って、命を落としていかれた人たちがいる。そんな人たちのおかげさまで、今の平和な日本があるわけです。

お釈迦さまの教えも、テクノロジーのような文明の利器も、あらゆるものは、先人たちが一生懸命積み上げてきたおかげのもので、たまたまその一部を享受できているだけなんですよね。

果たして「ぼくが」「オレが」「自分が」、何かを成し遂げたんだと言いきれるものって、どこにあるんだろうか。というのが改めての気づきです。

お遍路をしていると、たくさんの死が当たり前にゴロゴロしてます。

セミの死骸はたくさんありますし、ミミズも死んでいる、ネコも車に轢かれている、そこに自分が死体となっていたとしても、何らおかしくない。大自然の中では、人間なんて本来ちっぽけなものでしかないんですけども、わたしたち人間は、どうしても「我が、我が」となってしまう生き物です。

そもそも、呼吸ができてるだけで、どれだけ有ることが難しい「ありがたき」ことかと思います。それなのに人は「もっともっと」と、キリなく、幸せを求めてしまいます。

ちょっと早起きして、少しの運動をして、太陽を浴びて、知らない人に笑顔であいさつをして、そして自分が生きたことによって生じた汚れを、他人様の汚れも含めてお掃除していく。こんなことをするだけでも、とても満ち足りた時間を過ごすことができます。

そんなふうにしながら、自分を磨いて、「我が我が」となりすぎず、まわりの人のために何か小さい親切を積み上げていくだけで、生きにくい世の中であっても少しだけでも生きやすくなるのではないかと思います。

持っているものを分かち合うと、相手も自分も幸せな気分になることを、四国遍路の「お接待」という文化で改めて知りました。見ず知らずの人が歩いていたらお水を与えてくださったり、家に泊めてくださったり、自分が持っているものをシェアする、分かち合うことが広がっていくと、この世は楽しくて、いい場所になっていくのかもしれません。

四国の地には、お遍路さんへのおもてなしの文化である「お接待」がいまも変わらず息づいている(画像提供・小野龍光さん)

お釈迦さまの教えの一丁目一番地

いまのぼくは無職なので、飯が食えるのかなとか、嫁に捨てられないかとか、いろんなことを考えれば不安は尽きませんが、でも未来って「未だ来てない」と書きますから、何にも分からない。未来のことを準備することは大切ですが、考えてもキリがないですよね。

また、自分がしでかしてしまった過去に対してもいろんな囚われがあるかもしれませんが、過去は「過ぎ去る」と書きますから、なにも変えようのない、しょうがないことなんです。

そして時に、周りの人と比較して、特にソーシャルメディアなんかで、「自分はどうしてイケてないんだろう」「もっともっと、こうだといいのに」とか苦しんでしまうこともあります。

「あいつが」「うちの会社は」「この国の政治家は」などと、いろんなものにケチをつけたくなる気持ちも分かりますが、でも、ケチをつけたところで、自分の中身はなんにも変わらないわけですよね。

これはまさにお釈迦さまの教えの一丁目一番地じゃないかと思います。

あなたができることは
あなたのいまの人生だけなんだ。
あなたのいまの自分だけを
一生懸命やろう。
他に頼るな。
他は他。
あなたはあなた

もちろん、大きな夢を持つことは悪いことじゃないですが、それすら自分一人の力ではないんだと気づくことです。

たまたま縁がある人に対して何か良いことをする、朝の小さな挨拶、しっかりそういったことをしていく、それだけで、十分に素敵な人生になるのではないでしょうか。

乞食のような生活をする中での気づきではあります。ただのさまようハゲ坊主の戯言ですが、感じたことをみなさまにシェアさせていただきます。

今日は本当にありがとうございました。


龍光ポスト
龍光さんへのメッセージ、今後の予定、Podcastはすべてこちらにまとめられています。

YouTube『JQ QUEST JQ出家して世界を行く〜行き先はアナタが決める🕹️』
高橋淨久さんと小野龍光さんによるインド旅ムービー。全33回。旅の始まりから、龍光さん出家の瞬間までを観ることができます。


企画・撮影・文 玉川将人

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