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偶然か、神の意志か。燃え残った姫路城|90歳を超えた姫路空襲の語り部-黒田権大さん(後編)
93歳になった今も
語り部活動を続ける
黒田権大さん。
33年間で行った
講演の数は延べ320回。
1995年には
姫路の街に爆弾を落とした
米軍パイロット本人とも
対面しています。
米兵はなぜ姫路城を燃やさなかったのか。
焼け残った姫路城に何を感じたのか。
そしてなぜ、
黒田さんは語り部を続けるのか。
お盆。そして終戦。
日本の8月は弔いの季節です。
知ることで、亡き人を敬い
知ることが、未来を作る。
黒田さんのひとことひとことが
戦争と平和について
考えるきっかけになれば幸いです。
前編「姫路中が真っ赤に燃えた夜」はこちらから。
※この記事には、一部残酷な表現が含まれている可能性があります。戦争の事実を伝えるためのものなので、あらかじめご了承の上、ご覧ください。
米軍パイロットの来日
1995年7月に、戦後50年を記念して、姫路市はB29を操縦していたパイロット5人とその家族を姫路に招待しました。
彼らにとっては、自分たちの手で数百人の命を爆殺した街ですから、ずっと訪日を拒んでいたそうです。しかし、姫路独協大学の先生たちの粘り強い説得もあり、ついに首を縦に降り、姫路への来訪が実現しました。
市民との対話集会には、遺族から高校生まで、約200人が集まりました。
爆撃部隊の隊長だったアーサー・トームズ氏は「みなさんに叩き殺されると思い、姫路に来るのは怖かった」と話していました。
しかし実際に姫路にやって来て、現地を見て、歩き、姫路の人たちと話をしたことで、もっと早く来るべきだったと考えが変わったそうです。集会のあいさつでも、「恩讐を超えて、日米友好の架け橋になりたい」という趣旨のことを述べていました。
市民の中には、片腕を失った人もいて、「あなたたちの空爆で私は腕を失った」と詰め寄るシーンもありました。パイロットの一人が「個人的に望んだことではなく、命令に従っただけだ」と、自身の想いを伝えた上で、謝罪していたのを覚えています。
戦場では、個人の倫理は通用しません。加害という点においては、日本側も同じことが言えます。
というのも、中国人を8人銃殺した人を、私は知っています。「この中にスパイがいるかもしれない。だから全員を撃ち殺せ」と上官に命令されたそうです。
上官の命令は天皇陛下の命令。拒むことなんて戦場では絶対に許されません。戦争が終わったあとも、罪の想いを払しょくできなかったのでしょう。亡くなる前の年まで、彼は毎年必ず慰霊碑に足を運び、手を合わせていました。
手柄山中央公園内にある、太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔。太平洋戦争中の空爆その他による犠牲者で、軍人軍属以外の50万9,700余の死没者を供養し、その霊を慰めるとともに、世界の恒久平和を祈念するため、1956(昭和31)年10月26日に建立された。以降、毎年10月26日には『追悼平和祈念式』を執り行っている。
敵兵に聞いた「どうして姫路城を燃やさなかったのか」
パイロットたちも手柄の慰霊塔に花を捧げ、空爆で命を落とした人たちを悼みました。
その後、姫路城を案内することになるのですが、トームズ隊長の通訳を任された私は、「どうして姫路城を燃やさなかったのか」と、直接本人に訊ねました。
これまで市民の中では、米軍が文化財である姫路城をあえて標的にしなかったのではないかと、考えられていました。
なだけに、彼の答えは意外でした。
「夜間で、城かどうかの判別ができなかった」
白銀町から撮影した焼け跡の姫路市街地。姫路城だけが変わらないすがたでそびえ立っているのが分かる。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)
城の周りのお堀も含めて、このあたりを池や沼と判断したそうです。機内には搭載の爆弾がまだ2割ほど残っていたそうですが、そこで爆撃をやめたんだと。
B29はサイパンのすぐそばのテニアン島から発進します。飛び立つ前に基地で姫路の地図が配られたそうです。空爆の対象地域を赤い線で囲むのですが、姫路城はちょうど北側の線上にかかっていたとも話しています。
のちに彼は、「姫路城が燃えなかったのは、偶然かもしれないし、もしかしたら神の意志だったかもしれない」と話しており、私もそうとしか思えません。
というのも、空爆のあくる日、場内にある鷺城中学校(現在の千姫ぼたん園)に行ってみたのですが、校舎は85%くらいが燃えてなくなっていました。西の丸の石垣の下にも焼夷弾の燃えカスが残っていたのを覚えています。他にも、天守の最上階にあった不発弾を外に運び出したという話も聞きましたし、こう考えると、お城が燃え残ったのは本当に奇跡としか言いようがないのかもしれませんね。
神戸新聞の特集記事を見せてくれる黒田さん
私の胸中ですか? もちろん複雑ですよ。実際に姫路を燃やし、祖父母を殺した張本人に、戦後復興を果たした姫路を案内するわけですから。
でも一方で、戦争が終わって50年が経った。トームズ隊長が話したように、「恩讐を超えて、日米友好の懸け橋にならなければ」という想いもありました。
燃え残った姫路城がせめてもの救い
私が通っていた鷺城中学校は焼失しましたが、その先にある姫路城は残っていた。姫路中が焼け野原になってしまったけれど、姫路城が残っていたことはせめてもの救いでしたね。
あの頃の姫路城は「白鷺城」ではなくて「黒鷺城」だったんです。敵に見つからないよう墨汁で染めた黒いネットをかけていた。たしか昭和17年、僕らが中学校1年生の時には黒いネットを張っていたように覚えています。
鷺城中学校は現在の姫路ぼたん園に位置する。同じ敷地内で、お城とは目と鼻の先である。姫路城が燃えなかったのは奇跡としか言いようがない。
もしも「黒鷺城」にしていなかったら、レーダーに映って標的にされていたかも? たしかにそうかもしれませんね。まあ、真っ暗な深夜で何も見えなかったと話していましたから、そこのところは分かりません。
姫路の人間にとって、姫路城はあって当たり前のもの。無意識の中でずっと精神的なシンボルというか、支えになっていたと思います。実際にお城を中心に復興も急速に進みましたし、お城のおかげで外国からも観光客がたくさん来てくれているわけですからね。
焼け跡の中の姫路城。五軒邸から。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)
姫路のシンボル・姫路城。今日も国内外からたくさんの人が訪れている。
語り部活動は、命尽きるまで
定年退職した年から、33年間ずっと語り部活動を続けています。お世話になった恩師の遺言で、遺族会の会長を引き継いだことがきっかけです。
県と市から要請を受けて、はじめは川西航空機のあった地域の、東小学校と東光中学校で講演をさせてもらいました。
すると、子どもたちが目の色を変えて話を聞くわけです。普段戦争の話なんて聞いたこともないので、興味を持って、真面目に聞いてくれる。手を挙げて質問をするし、あとから送られてきた感想文もしっかりと内容が詰まっている。ああ、これは続けていかなければならないなと思いましたね。
主に小中学校の子どもたちに向けて話すことが多いのですが、他にも、企業、団体、地域の公民館、お寺など、1年で平均10回、延べ320回近く、講演の機会をいただいています。先週も、平和資料館で学校の教職員向けにお話させてもらいました。
聞く人の熱意は語り部を始めた頃から今でも変わりません。ですから私の中で、責任感が使命感となり、今では生きがいとなっています。オファーがある限り、命ある限り、語り部活動を続けます。
語り部は年々減っています。以前は数人いましたが、今はもう私以外にやっている人はいないですね。
姫路市は、敗戦までは軍の施設や軍需工場が並ぶ「軍都」でした。しかし今は、全国各都市の空爆で亡くなった方への慰霊塔がある平和都市です。
毎年10月26日には欠かさず平和祈念式典が執り行われています。世代が移っても、この姫路市が中心となって、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝え続けてほしいものですね。
この記事は、播州地区の仏壇店・素心が、姫路空襲について知りたいとの想いから始まった企画です。
取材を続けていく中で、一人でも多くの方に、私たちの住むこの街にかつて実際に起きた歴史的事実を知ってほしく、シリーズ化を予定しています。
もしも、姫路空襲について語ることのできる方、あるいはそういった方をご存じの方は、素心姫路店までご連絡いただければ幸いです。
(電話)079-288-6111
(メール)himeji@so-shin.jp
姫路市平和資料館では、姫路空襲に関する資料が展示されています。姫路空襲の体験コーナーもあるので、ぜひ足を運んでみてください。
この記事をきっかけに、姫路空襲についてさらに詳しく知りたいと思われた方は、こちらのサイトが分かりやすくまとめています。
▶総務省「姫路市における戦災の状況」
▶神戸新聞「なぜ大空襲で姫路城は無傷だったのか 奇跡の歴史を探る」
姫路以外の街に住む方々にも、あなたの街の空襲について知る機会になれば幸いです。日本全国の空襲の記録は、こちらのサイトがおすすめです。
▶Yahoo!JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
取材・撮影・文 玉川将人