TOP記事一覧>記事

Article読み物

2022.08.15

姫路中が真っ赤に燃えた夜|90歳を超えた姫路空襲の語り部-黒田権大さん(前編)

姫路中が真っ赤に燃えた夜|90歳を超えた姫路空襲の語り部-黒田権大さん(前編)

 

終戦から77年。
みなさんは、
日本中のあらゆる都市が
米軍による空襲を受けた事実を
知っていますか?

私が住んでいる姫路ももちろん
あなたがいま住んでいる街
生まれ育った街も
例外ではないかもしれません。

当時16歳だった黒田権大さん。
93歳となった今もなお
姫路空襲の惨状を
次世代に語り続けています。

私たちは、
戦争を体験することはできません。
体験なんて、したくない。

でも、知ること、
想像することは、できる。

今日は終戦記念日。
たった10分で構いません。
スマホ画面をゆっくりスクロールして
黒田さんの声に
耳を傾けてみて下さい。

終戦間近の昭和20年。
6月22日の
川西航空機爆撃。
7月3日深夜から翌日にまたぐ
姫路大空襲。

私たちの知らない
でも確実に
この街が焼け野原となった
あの日のことを
想像してみて下さい。

※この記事には、一部残酷な表現が含まれている可能性があります。戦争の事実を伝えるためのものなので、あらかじめご了承の上、ご覧ください。

爆発、爆片、爆風

当時私は16歳でした。あの頃、中学3年生以上は学校に行かずに武器工場で働きました(学徒勤労動員)。私は飾磨の山陽製鋼(現在の山陽特殊製鋼)に動員させられていました。

6月22日の朝もいつもと同じように出社しましたが、まもなくすると、警戒警報のサイレンが鳴って、50数機のB29がこちらに向かっているという情報が入ります。

そして空襲警報。断続的だったサイレンが鳴りっぱなしになるんです。これがこわい。工員も学生も、とにかく遠くに避難しろということで、狭い道を一心不乱に走ります。

逃げながらもどうしても南の空が気になる。見上げると、銀色に光るB29の編隊が、こっちに近づいて来るわけです。「ついに来た!」「こわい!」そんな感じです。

京口に川西航空機(現在の新明和工業)という戦闘機を作る工場があって、そこが狙われました。約1時間の波状攻撃で、250kgの爆弾が1400発だそうです。工場は完全に破壊され、残ったのはねじ曲がった建物の鉄骨とがれきだけでした。

 

空爆を受けた直後の川西航空機姫路製作所。建物の鉄筋だけが剝き出しになっている。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

被害は爆発だけにとどまりません。まず、爆弾の破片。周囲200メートルを四方八方に猛スピードで飛び散って、これに当たった多くの方が亡くなった。

そしてすさまじい爆風。身体の一部を吹き飛ばされた人もたくさんいたそうです。

「逃げる途中に主人のおなかに破片が当たって即死した」

「赤ん坊をおんぶして一生懸命逃げていたけど、気づいたらものすごい爆風で首だけが飛ばされてしまっていた」

そんな証言を、あとからたくさん聞きました。

黒田権大さん

私のいた飾磨から京口までは、かなり距離がありますから、爆音や黒煙など、はっきり覚えていないんです。

現場をこの目で見たのは夕方になってから。自転車で近くまで行きましたが、神谷町あたりから先へはとても行けたものではありませんでした。

建物は倒壊し、がれきはあちこちに散乱し、いたるところで爆弾が地面をえぐっていました。遺体は見当たらず、牛や馬が引っ張る荷車に積んで、市川の河原まで運び、そこで火葬をしたそうです。

早く戦場に行きたい

東京、大阪、神戸などの大都市がすでに空襲を受けていて、直前では明石もやられていた。次は姫路かなあという予感は、大人の中にも子どもたちの中にもありました。

でも、京口の惨状を見たあとでも、当時の私たちは、「早く軍隊に行きたい」と考えていましたね。

というのも、普段の教育の中で、「大人になったら、日本のため、天皇陛下のため、喜んで命を捧げる兵隊になれよ」と言われてたからです。

軍需工場で働いている時も、昼休みに休憩している私たちに向かって先生が「ここで働くのも大切だが、先輩を見習って、早く兵隊にならなあかん」と発破をかける。実際に何人かが海軍航空隊に行って特攻隊を志願していましたし、私も陸軍士官学校に願書を出していました。

日本は、中国やロシアにも勝ってきた強い国だ。そう教えられましたし、実際にそう思っていましたからね。「自分も早く戦場に行って、この戦争を終わらせたい」そういう風に考えていました。

黒田さんが保管している焼夷弾の鉄筒(上)、帰還兵からもらった鉄のヘルメット(左)、水筒(右)。講演先に必ず持参している。

毒ガス攻撃に備えて防毒マスクも支給されていた。

匍匐ほふく前進の練習が週に3度あった」と話す黒田さん。ひざから下を擦り剝くことがないよう、必ずゲートルを着用させられていた。

姫路中が、真っ赤に燃える

私が直に爆撃を受けたのは7月3日の姫路大空襲です。川西がやられて10日後。また来るぞという噂はありました。

夜の11時50分ごろでしたかな。警戒警報のサイレンが鳴って外に出たら、姫路の夜空がぱーっと明るくなった。照明弾ですわ。そしてその4分後くらいですかね。空襲警報のサイレンが鳴ったとたんに、みんなあわてて逃げ出しました。B29はもう飾磨あたりまで来ていたんです。

川西の時と違って、今度は焼夷弾。ジェル状の火薬の入った鉄の筒が、ザーッと不吉な音を立てて落ちてくる。空中で散らばって、光の筋を放ちながら雨のように落ちてくる。地面に落下した衝撃で破裂すると、あたりを火の海にしていく。木造建築を燃やし尽くして、姫路を焦土にしようとしたのです。

普段、防火訓練をさせられていましたが、集中的に10万5千発も焼夷弾を落とされたら、とてもじゃないが消火なんてできません。だから、みんな一目散に逃げるわけです。

姫路市平和資料館に展示されている集束焼夷弾。この中にM69焼夷弾(下の画像)38発を格納していた。

黒田さんが所有するM69焼夷弾の筒。六角形の鉄筒の中にゲル状の火薬が詰められている。焼夷弾は爆弾とは異なり、着火して目標物を火災に追い込む。

わが家には、寝たきりの祖母がいました。

「おばあちゃん! 空襲警報や。一緒に逃げよう」と言っても、「どこにおっても死ぬときは死ぬんや。私はここを動かん。あんたら早く逃げ」と答えるばかり。

すると母が「権大! 私がここにおる、あんたは早く逃げぇ!」と言うので、私はひとり飛び出して、80mほど先にある、田んぼの水路に逃げ込みました。

5、6分もしないうちですかね。私の目と鼻の先に、焼夷弾が落ちてきましたよ。本当に。あなたと私がいるこの距離くらいに。

田植えをしたあとだったので、落下してきた焼夷弾が発火することはありませんでしたが、とにかく怖かった。雨のように降ってきた焼夷弾が、あたり一面に突き刺さっていく。いつ私に当たってもおかしくない中、とにかく身を縮めていました。目の前の水田は、まるで焼夷弾の林でした。

姫路中が真っ赤に燃えていました。

あとから聞いた話ですが、家島や、太子や、福崎の方からも、姫路の空が赤く光っていたそうです。「大きな花火みたいできれいだった」とたくさんの人が証言していましたけど、焼夷弾の真下にいる私はとにかくこわい。炎がこちらに来るのではという恐怖心です。

空襲が終わっても火事は続いて、家に帰ると母屋と離れが燃えていました。

一生懸命消火しても、まあこれが、なかなか思うようにいかない。防火演習でやったようにバケツの水をかけるのですが、それが天井まで届かない。なかなか消えんのです。

戦時中は、いたるところで防火演習や防空演習が行われた。画像は大野町の防火演習。兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

ようやく火事が落ち着いて、祖母の所に行き、遺体を掘り出したのが午前3時頃。

真っ黒こげになっていました。遺体というよりは、真っ黒な物体。人生ではじめて見た遺体が祖母のもので、しかもそんな姿になっているわけです。それは、ショックでしたよ。

明け方になって、焼け残ったトタン板に載せて、手柄駅の近くの墓場まで運んで、穴を掘って埋めました。祖母にずっと付き添っていた祖父も大やけどを負ってしまい、4日後に亡くなってしまいました。

それまで、「早く兵隊になりたい」なんて思っていましたけど、あの日を境に完全に考えが変わった。家が焼かれ、街が燃やされ、家族が殺されたんです。「こんな戦争、早く終わってしまえ」と思いました。

焦土と化した姫路の街。西二階町の様子。兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

船場御坊東正門前。兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

後編では、戦争を終えたあとの黒田さんの語り部活動についてお話を伺いました。姫路にやって来た米軍パイロットとの対話集会。米軍はなぜ姫路城を爆撃しなかったのか。廃墟の中から浮かび上がる姫路城に何を感じたのか。ぜひご覧ください。

▶後編「偶然か、神の意志か。燃え残った姫路城


この記事は、播州地区の仏壇店・素心が、姫路空襲について知りたいとの想いから始まった企画です。

取材を続けていく中で、一人でも多くの方に、私たちの住むこの街にかつて実際に起きた歴史的事実を知ってほしく、シリーズ化を予定しています。

もしも、姫路空襲について語ることのできる方、あるいはそういった方をご存じの方は、素心姫路店までご連絡いただければ幸いです。

(電話)079-288-6111

(メール)himeji@so-shin.jp


姫路市平和資料館では、姫路空襲に関する資料が展示されています。姫路空襲の体験コーナーもあるので、ぜひ足を運んでみてください。

姫路立平和資料館

 

この記事をきっかけに、姫路空襲についてさらに詳しく知りたいと思われた方は、こちらのサイトが分かりやすくまとめています。

▶総務省「姫路市における戦災の状況

▶神戸新聞「なぜ大空襲で姫路城は無傷だったのか 奇跡の歴史を探る

姫路以外の街に住む方々にも、あなたの街の空襲について知る機会になれば幸いです。日本全国の空襲の記録は、こちらのサイトがおすすめです。

▶Yahoo!JAPAN「未来に残す 戦争の記憶


取材・撮影・文 玉川将人

一覧へ