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2022.10.25

12歳の少女が見つめた戦火の人間|姫路空襲を語り継ぐ【姫路大空襲~終戦直後】

12歳の少女が見つめた戦火の人間|姫路空襲を語り継ぐ【姫路大空襲~終戦直後】

 

今年で終戦から77年。
『こころね』は
戦火を生き延びた方々による
姫路空襲の記憶を語り継ぎます。

鈴木照代さん(仮名・87歳)は、
戦時下の姫路の様子を
当時12歳の少女だった目線で
生々しく回顧してくれました。

夜間の姫路大空襲
不気味で怖い。だけどきれいな焼夷弾
うまく聞き取れなかった玉音放送
夕刻、隣家にやって来る進駐軍

戦火をくぐり抜け
焼け跡を生き抜く人々の
きれいごとでは片づけられない現実が
かつてこの姫路の地にもあったことを
ここに記録します。

※この記事には、一部残酷な表現が含まれている可能性があります。戦争の事実を伝えるためのものなので、あらかじめご了承の上、ご覧ください。

防空壕に隠れると、蒸し焼きにされる

私のうちは西二階町にありまして、空襲を受けたのは小学5年生の時でした。4年生まではきちんと学校で授業もできていましたし、町のあちこちに防空壕作って、防空演習もやってました。バケツリレーやら、退避訓練やら。

防空壕は、家ごとに作ったり、隣組で大きいのをこしらえたり、さまざまでした。空襲警報が出ると、みんなで防空壕の中に逃げ込んで、リュックサックに入れた干豆や、お米を干したのを食べて喜んでました。子どもやさかい、戦争の中にも楽しみがありました。

昭和20年の3月に東京が大空襲を受けて、名古屋やら大阪やらが軒並みやられる。すると、防空壕の中に逃げ込んだらあかんという噂が流れてくるんです。生き埋めになるか、蒸し焼きにされるかのどっちかで、かえって危ない。

そうこうしていると、その年の4月から5年生になるわけですけど、もう日本全土で空襲が始まってて、姫路もいつやられてもおかしくない状態。友達の中には田舎に疎開する子もいましたし、青空学校で授業してても、空襲警報が出たら、授業を切り上げて、急いで家に帰らなあきません。勉強なんて落ち着いてできなかったですし、とにかく学校がざわついてました。

でも、その頃はまだ子ども時分。戦局のこともよう分からんで、とにかく言われた通りにお国のためにがんばりました。姫路は軍都で、兵隊さんがいっぱいいてはって、この兵隊さんのためにもがんばらなあかん、と。

夏の暑いころなんて、市川に泳ぎに行きたかったけど、あの頃、播但線の電車がグラマン(米軍の主力戦闘機の通称。グラマン社製F6Fヘルキャット)の機銃掃射を受けて、たしか仁豊野と香呂の間あたりやったと思います。せやから線路に近づけられへんし、川で泳げへんのやなあと、残念だったのをよう覚えています。

軍都として栄えた姫路。姫路城の周りにはさまざまな軍関連施設が並んだ。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

小学校でも武術演習が行われた。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

焼夷弾の雨。カオスの中の秩序

6月22日に1回目の空爆があって、川西航空機が狙われた。あの時に落とされたのは一般爆弾です。

ほんで、7月3日の夜に落とされたのは焼夷弾。木造の建物を燃やしつくすためのものです。

警報が鳴ってものの10分ほどですよ。ドドドドドドっとすごい音がして、誰彼となく「落ちたー!」と叫ぶ。東二階町にあった郵便局の本局が燃えて、とにかく一目散に母と姉と西に向かって走りました。

今の神姫バスと白鷺小の前の道を北に、お堀まで突っ切りました。するとそこから総社の鳥居と周辺の松林がバチバチと燃えているのが見える。さらにその隣に電電公社のモダンな建物(現在の姫路モノリス)も、悠然と建ったまま燃えている。早く逃げなあかんのにおしっこが出そうになる。「お母さんおしっこ」と訴えても、「おしっこしとき、そのままで」と言われて、そのままパンツの中でしました。トイレになんか行かれへんのです。

焼けつくされた総社。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

市之橋の下に入り込もうとしても、人がいっぱい。私たちは女だけでしたから除け者です。男の人がいたらそちらが優先される。当時は男の人が強かったんです。景福寺の山に登ろうとしても、人がたくさんいて、私ら女だけでしょ。女と子どもだけやから、ここもやめとこうってなった。いまの野本眼科さんのところに防空壕があったんですけど、「隣保じゃない人は入っちゃいけません」と言われて、そういうのを思い出します。

あの頃はほんまに男の人が強かったです。でも、別段腹も立ちませんでした。あの頃の人たちは言われたことをきちんと聞くように教えられてるでしょ。だから、あれだけの非常時でも、なんとなく整然として、秩序立っていました。

もちろんガチャガチャ言う人もいっぱいいましたよ。でも、ある程度はみんな整然としてましたし、私らも「ああ、ここはあかんのか。じゃあ、他んとこ行こ」と避難してたのを覚えています。

不気味で怖い。でもきれいやった焼夷弾

焼夷弾は、私らが逃げたすぐうしろで落ちてました。

いまの城乾中学校のあたりの田んぼに座って、お城の方を見よったんです。はじめ光の棒みたいのが、夜空に光りながら落ちてきて、途中からパチパチ言いながら、八角形の焼夷弾の端が弾けて散らばるようにゆっくり落ちてくる。打ち上げ花火なんて見たことなかったですから、余計に忘れられませんわ。ヒューヒューと不気味な音を立てて落ちるのがごっつい怖いんですけど、一方で不謹慎とは分かりつつも、きれいやったんですわ。それがあの時感じた正直なところです。

西二階町から命からがら逃げてきて、田んぼの中に座って、空襲を呆然と見上げてました。焼夷弾は近所にも落ちて、人がいる家はすぐに火を消してましたけど、誰もいない家はどんどん燃えて、止めようがない。景福寺の山にも、男山にも落ちて、それらが木と一緒にパチパチ燃えてました。

ほいで、気が付いたら朝が来て、東の方に丸いお日様がまっ赤っか。でもまわりはみんなどす黒い煙が朦々と上がってる。その暗い空気の中、朝日が、鈍く姫路城を照らすんですわ。

当時の姫路城は空襲の標的を避けるよう、黒い網で覆われて、白鷺城が黒鷺城になってました。その姫路城が朦々と、黒々と、視界に飛び込んでくる。「お城が残ったー!」って手叩いていた人もいましたけど、絶望と、疲れと、安堵と、恐怖で、私はなんとも言えない気分でしたね。

 

玉音放送が聞き取れない

空襲後のことはあんまり覚えてないんです。町中が燃えてしもうて、船場御坊さんがあんなに近いもんかと驚きました。燃え残った蔵を見て「ここは金持ちやな」なんて子どもながらに勘ぐっては、焼野原を見て回っていたのを覚えています。

あと、木造の建物がたくさん燃えたわけでしょ。ですから、消し炭がそこら中にいっぱい転がってて、これが薪に使えます。姉と乳母車にたくさん積んで持ち帰って、母に喜んでもらいましたね。

その頃は、白国の母の実家に身を寄せてて、玉音放送もそこで聞きました。でもラジオの音が聞こえにくくて。天皇陛下の声が、ぼんやり耳に入るだけです。しかもこっちは子どもですから、何を言ってるのか全然分からない。そうしてるとおばちゃんが、戦争負けたんやでって、教えてくれました。

戦争に負けた時の気持ち? うーん。分からないですね。ただ、「明日から空襲も機銃掃射もない。ほしたら川で泳げるんやなあ」って、嬉しくって喜んでました。大人たちは大変な思いをしたんでしょうけど、子どもらは元気なものです。

焼き尽くされた市街地からは船場御坊が見えたという。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

いろいろゴチャゴチャしながら、街は復興していきました

それから世の中がどんどん変わっていきます。進駐軍が来たのがいつ頃やろ? 9月にはもう来てたんでしょうか。

そうすると、近所の人らが家の離れや納屋を貸すんです。うちのお隣さんもパンパンに家を貸してました。パンパンって分かります? 進駐軍向けの売春です。

昼はそこのお姉ちゃん、優しく遊んでくれるんです。喋ってもおもろいし、歌も上手いし。でも、夕方になると「早よぅ帰り!」と言われて、なんでそんなに急かすんやろなあと思ってました。

すると、小一時間もしない内に、進駐軍の米兵がやって来る。小学校6年生の男の子らはみんなやんちゃ坊主なもんです。指で障子紙破って、覗き見して。それを私は、なんのことかよう分からんまま家に帰って母に話すと、えらい怒られました。そんなことも覚えてます。

とにかく社会全体がお金がない。お米を作ってもお金に変わらない。離れと布団を貸すだけで、お金が入ってくるわけですから、しょうがないところもあったんやと思います。

でも、うちの父と母は、いつまでもこんなところにおったらあかん言うことで、焼け跡に家建てようとなって、翌年でしたか、西二階町に新しい家を建てました。

あのころは瓦礫を運び出すために、西二階町の通りにレールを敷いて、そのためにこの町だけ復興が遅れたって、西二階町の人らはよう怒ってたのを覚えてます。いろいろゴチャゴチャしながら、街は復興していきました。

俵町(現西二階町)を走る“ゴミ取り列車”。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

身体に染み込んだ姫路城

そら、戦争はない方がいいです。ない方がいいけど、たえず世界では何かがあるんでしょうね。まるまる平和なんてありえないのかもしれません。

いまもウクライナで戦争が起きている。国をまとめるのは大変なのかもしれませんけど、偉い人たちは世界をドキドキさせるようなことをせんといてほしいです。

空襲の日の朝の姫路城のことははっきり覚えてます。それはもう、姫路で一番大きい建物、それが燃えなかったことに、まわりの子どもみんなが手を叩いて喜んでいました。

でも、それが嬉しいとか、誇らしいとか、どういう気持ちのものか、その時は分かりませんでした。それはもう本能的なもの、心から、身体から湧いてくるもの。教えられたものじゃない。そんだけ身体に染み込んでいるんでしょうね。子どもの時から、当たり前のように見てきているものですから。


姫路市の手柄山公園の中には、日本全国の空爆で命を落とした人を供養するための慰霊塔があります。毎年10月26日には「追悼平和祈念式」が行われ、数日前からは慰霊塔のライトアップが行われます。素心は、世界の恒久平和と、先の大戦で命を落としたすべての人々のご冥福をお祈りいたします。

▶慰霊塔・平和祈念式典についてはこちらから。


取材・構成・文 玉川将人

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