Article読み物
村の埋め墓が未来型の霊園に蘇った!-立ち上がった地元住民と素心による奇跡の”絆”物語(後編)
日本全国の
墓地の管理で頭を悩ましている
すべての人たちに
この記事を贈ります
江戸時代から続く村の共同墓地には
土葬された遺体や
火葬された焼骨が
たくさん埋まっています
風や雨にさらされて
ひび割れ、苔むした
古いお墓のひとつひとつにも
だいじな「魂」「想い」が込められている
その扱いの大変さ難しさは
経験した人だから語ることができます
取材を通じて分かったのは
現代日本の墓地行政の課題だけでなく
亡き人や祖先を想う日本人の「心」
ご先祖様がいるから、いまここにいる
そのことへの祈りに近い感謝が、
住民たちの願いを形にしていったのです
加古川新在家霊園-絆-
令和3年春 オープンまでの軌跡です。
前編がまだの方はこちらをご覧ください。
「無縁化する墓地をどないかせな!-立ち上がった地元住民と素心による奇跡の”絆”物語(前編)」
参り墓と埋め墓 遺骨や墓石が乱立する
播州地域には、古くから「両墓制」と呼ばれるお墓の形があります。お墓参りをするための「参り墓」と、遺体や遺骨を埋葬するための「埋め墓」の、2つのお墓を作るのです。
参り墓には五輪塔や宝篋印塔や角柱墓などの、いわゆる「お墓」が建ち並びます。
一方で、埋め墓には自然木や自然石や卒塔婆などが無秩序に並びます。かつては土葬が行われ、その後は一切お参りをしないところもあれば、5年や7年など一定期間お参りするなど、埋め墓への関わり方は地域によってさまざまです。
新在家墓地は埋め墓だった頃の名残を残しつつ、明治以降は村共同の参り墓となりました。土の中には遺体や遺骨が埋まり、地上にはお参りのない古墓から最近のお墓までが並ぶ、まさに時代を超えたお墓が無造作に乱立していたのです。
埋め墓の名残を残すかつての新在家墓地
こうした問題を解決するために素心とともに前に進み始めた墓地整備プロジェクト。しかしフタを開けてみると、さまざまな難関が立ち上がりました。
あるはずの地番がない⁉ 公図と現況のズレ
まずはじめに立ちはだかった問題が、公図と現況のズレです。
現在法務局が発行する地図は、明治6年の地租改正の時に一筆ごとに測量したものが基になっています。新在家墓地はたしかに財産区として認められているものの、登記簿を取得してみると、地番そのものがなかったのです。
これでは墓地を整備したくても手が付けられない。役員たちが市の窓口に出向きますが、市もその原因と解決法が分からない。次に法務局に出向いても同じ回答。やむなく県庁にまで足を運んだものの「『自治会長さんが申請されて解決できる問題ではない』と言われましたわ。途方に暮れましたね」と赤松会長。「きっとこの難問が、これまでこの墓地を触ってこれなかった原因ちゃいますかね」と副会長の中田喜高さんは話します。
「こうなったら市長名でなんとかしてもらうしかない。財産区の管理人は市の首長やから」と動き出したのが中田正則さんでした。何度も市役所に足を運び、その動きだけで2年近くかかったと話します。「地道な努力が実り、最後は市長がはんこを押して下さった。おかげでなんとか公図を訂正してもらったんですわ。いざ測量してみたら、面積が全然合わなんだ。登記簿に書かれている面積よりも1000㎡くらい増えました(笑)」
旧自治会長の丸山紀治さんは、「赤松会長、(中田)喜高さん、(中田)正則さんのおかげで動かなかった壁が動いた。本当に、感謝です」と、しみじみ語ります。
困難を極めた祀り手探し
前章でも触れたように、住民からの反対はゼロ。問題意識は共有されていました。
とはいえ、住民ひとりひとりに納得してもらうには細心の注意を払ったと中田正則さんは話します。「反対意見が出ないように、時間をかけて、慎重に理解してもらいました。将来的なリスクや、住民全体の利益を話してご理解いただきました。問題はね、お墓の持ち主が見つからない場合。これが困った」
墓地の管理者は、勝手に墓石や遺骨を動かすことはできません。法律では、改葬公告を官報に掲載し、その日から1年間、現地に立札を設置することが義務付けられています。
住民説明会には、その関心の高さから100名近くが集まった。
「盆や彼岸等にお墓参りに来た人は、立て看板を目にし、なんらかの連絡を寄こしてくれる。しかしお参りのないお墓も多数ある。こうした家はお手上げでしたわ。子や孫が都会に出ていることもある。家が途絶えていることもある。どうすればいいのか、ここはもう素心さんにご協力いただくしかなかった」と赤松会長。
あらゆる方法で、子孫や親族を探した素心の廣野さんは、逆に協力的な自治会に助けられたと話します。
「ご親戚やご近所の方を通じて、どんどん情報が広がっていきました。本当に自治会と素心が一緒になってこのプロジェクトを進めているのだという実感がありましたね」
それでも、最終的には125基のお墓の祀り手が見つかりませんでした。これらは無縁墓として一か所にまとめられ、遺骨は永代供養塔に合祀されました。
一か所にまとめられた古墓
お墓の数だけ刻まれるさまざまな人間ドラマ
600を超えるお墓。その中にはさまざまな人間ドラマもありました。
「土の中を掘り返しみても遺骨が見当たりませんでしたが、ご先祖様も土に還られたのだと思うと、なんだか涙が出てきました」(60代女性)
「大阪から加古川に引っ越して数十年。実家の大阪にあるお墓にずっとお参りしてたけど、20年近く前に日光山霊園に引っ越した。それでも、この年になると市内から日光山に行くまでがしんどい。歩いて行ける距離にこんな立派な霊園ができて、ほんまに嬉しい。お墓がだんだんわしのおるところに近づいてきてくれた」(80代男性)
「数十年前に加古川を離れ、長らく大阪に住むという90歳男性からは、感謝と安堵の綴られたが届きました」と、素心の担当社員の北島さんは話します。長らく気になっていたお墓とお骨の行先が決まったことを電話でも喜んでいたそうです。
素心の廣野さん(左)と北島さん(右)。墓地整備事業に尽力した。
悲願の完成「行く先があるって、ホンマに心が安心するんやで」
令和2年4月22日。官報の掲載から1年が経ち、新在家墓地整備委員会はいつでもお墓を動かせるようになりました。祀り手の見つからなかった墓石は一か所にまとめて、地元の寺院に供養してもらいました。
現地説明会と申し込み当日も多数の人が集まった。
改葬の前には地元寺院による閉眼供養(魂抜き)の法要が厳修された。
令和2年秋、本格的な改葬と墓地整備が始まり、翌令和3年4月17日。村の共同墓地だった新在家墓地はついに「加古川新在家霊園-絆-」と生まれ変わり、地元住民の、さらには加古川市民や近隣住民の人たちにとってお参りしやすい21世紀型の霊園となったのです。
「あのぐちゃぐちゃだった墓地がこんなにもきれいになった。信じられない」
「こんな立派な合祀塔がうちの村にできるなんて、こらあ、すごいわ」
「ご先祖さん、きっと喜んでくれてます」
…と、現地説明会に集まった人たちからはさまざまな声が挙がりました。
とある方は次のような言葉をこぼしていたと言います。
「自分の住む故郷にこんな立派な墓地ができたんやなあ。行く先があるって、ホンマに心が安心するんやで」
永代供養塔の説明を真剣に聞き入る住民たち
日本中で、行き先のない遺骨や無縁墓が問題となっています。新在家霊園のように上手くいくケースは稀なのかもしれません。この一大事業を成し遂げたのは、役員の人たちの情熱、住民の意識の高さ、地元に墓地整備に長けた石材店があったことなど、いくつかの要因が重なったからに他なりません。
しかし、墓地を動かした何よりもの理由として、ある役員さんによる次の言葉が忘れられません。
「説明会に100人も集まったのはな、この村の人たちみんなご先祖様を大事に思っとるからやで」
ご先祖様との、住民同士の、そして素心との絆が、古い墓地の無縁化をとどめ、未来型の霊園へと生まれ変わらせたのです。霊園にはこれからも次々と新しいタイプのお墓が建ち並ぶことでしょう。その数だけのお参りがあり、その数だけの絆が結ばれていくのを、私たちはこれからも見守っていきたいと思います。
「加古川新在家霊園~絆~」の特設ページはこちらから!
構成・文 玉川将人
写真撮影 玉川将人・西内一志