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2022.10.23

爆弾の真下で九死に一生を得る|姫路空襲を語り継ぐ【川西航空機空爆】

爆弾の真下で九死に一生を得る|姫路空襲を語り継ぐ【川西航空機空爆】

 

今年で終戦から77年。
『こころね』は
戦火を生き延びた方々による
姫路空襲の記憶を語り継ぎます。

1945年6月22日。
50機を超えるB29の編隊が
姫路を急襲。
川西航空機のあった京口地区に
1時間で約1400発の
爆弾を投下します。

爆弾の落ちるまさにその真下で
ただただ地面に這いつくばり
九死に一生を得た
倉吉美智子さん(仮名・88歳)。

お寺の住職とご一緒し
これまで誰に対しても
多くを話してこなかった
あの日のことについて
語って下さいました。

※この記事には、一部残酷な表現が含まれている可能性があります。戦争の事実を伝えるためのものなので、あらかじめご了承の上、ご覧ください。

まさか姫路に爆弾が落ちるなんて

あのころ私が住んでたのは、いまの京口駅のすぐ近くです。県女(兵庫県立姫路高等女学校)と川西の工場(川西航空機姫路製作所)の真ん中でした。

川西航空が戦闘機を作る工場やとゆうことは知ってましたけど、あのころの私らからすると、普通の鉄工所がある感じで、そこが特別な場所やと考えることなく、普通に暮らしておりました。

中学校に入学したころでしたかね。本土空襲が始まりましたけど、東京や大阪の空襲はうちらとは違う、遠い世界のことのようでしたし、大人たちこそそわそわしていましたけど、私らは無邪気に友達と遊んで、とゆう感じでした。まさか姫路がこんな風になるとは、思っとりませんでした。

川西航空姫路製作所は、迎撃戦闘機「紫電改」を製造する主要工場だった。(画像は「soraかさい」(加西市鶉野町)に展示されている紫電改の実物大模型)

 

壁が崩れ、爆片が飛び、首が吹き飛ばされる

6月22日の朝も、いつもとおんなじように登校してましたけど、たしか警戒警報が鳴って、友達が「あんた、今日は休みやで」と教えてくれたので、家に引き返しました。

帰ってみると、仕事に行っているはずの父も帰宅してて、母とふたりで家の中から、なんやよう分からんけど、お布団を出して、家の目の前の広場に運んでるんです。なんやろなあと思いながら見ていたのを覚えとります。

あの頃、警報っていうのはもう毎日のように出てて、「ああ、今日もやなあ」という感じで、私たちも馴れっこになってるところがありました。実際に、警報が出ても何もない、ということもしばしばでしたからね。たしかその日は、警戒警報が空襲警報に変わり、また警戒警報になって、また空襲警報になって、そんな感じやったと思います。

でもその日に限っては、B29が、そらものすごい轟音を立てて飛んで来て、爆弾を落としていった。これまでに体験したことがないような、ごっつい音と地響きでした。

家の中にいた私はとっさに父のあとを追っかけて玄関から外に出ました。すると目の前で爆風の勢いで川西航空の赤レンガの壁がバラバラ崩れ落ちている。それがもうあんまりにも怖くて、もう一度玄関の中に入ると、当時6歳くらいの妹が「こわいー」って泣き叫んでいて、母がそれをなだめながら、小っちゃい靴を急いで履かせてました。

 

空爆を受けた直後の川西航空機姫路製作所。建物の鉄筋だけが剝き出しになっている。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

そしたら、玄関の外から、「お嬢ちゃん、大丈夫よ〜」と妹をなだめる声が聞こえてきたんです。その声は、隣の奥さんで、その方は神戸空襲にも遭っていたので、空襲がどういうもんか、ある程度知ってはったんでしょうね。妹をなだめたあと、自分はどこか別の場所に避難していきました。私にはとてもそんな余裕なんてなくて、どないしたらいいんやろと、オロオロしていたところに2度目の爆弾です。

その時、父だけ外にいたんです。母が「お父さん!」と駆け出して、私も同じように外に出てみると、腰か背中に爆片が当たったみたいで、大けがをして、出血している。「救護班を呼べぇ!」と父が叫ぶんですけど、そんな人はどこにもいませんねん。

母が近くの十字路に行ってみると、さっき妹をなだめてくれた隣の奥さんの首が爆風で吹き飛ばされていたらしく、「あんたは見たらあかんー!」と叫ぶ。もう何が何やら分からない中、次々と爆弾が落ちてきました。

逃げる場所なく、爆弾の真下で身を伏せる

とにかく逃げる場所がないんです。

家の中? あきませんねん。物が落ちて倒れてくると逆に危ない。でも、ウロウロしていると機銃掃射に狙われてしまう。防空壕の中に隠れても蒸し焼きになる。なにより、怪我をしている父を置いて行けませんやろ。逃げる場所がないんです。

B29が来る前に父と母が外に出していた布団を被って、爆弾が落ちてくる真下で、もうただただ時間が過ぎるのをじっとこらえていました。

爆弾が落ちるたびに地面が壊れるくらいに揺れる。「お母ちゃーん」と叫びたくても、猛烈な風圧で土埃が吹き付けてきますから声も出せません。そんな中で、布団をじっとかぶって、地面に這いつくばるしかなかったんです。

京口駅前の惨状。画像は兵庫県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)

焼け跡にこぼれ出る涙

どれくらいの時間が経ったかは覚えてません。B29がいなくなったあと、自分が握っているのが布団の端っこだけやいうことに気づきました。あとは全部爆風で引きちぎられて飛ばされていたようでした。でも、母は耳を少しだけケガをした程度で、私も妹も無傷でした。ほんまに奇跡やと思います。

父はもうダメで、声をかけても返事もなく、亡くなっていました。そのあたりに残っていた布団に乗せて、坂田町のお寺まで運んでもらって、あくる日、阿保の河原で火葬にしました。父以外にも、何百体もの遺体が、そこで火葬されていました。

焼けた京口の家に行くと、柱や梁がしっかり残ってて。でも壁が吹き飛ばされてますやろ、中身が丸見えで。中にあるものを取りに行きたいと母に言うても、「危ないから中に入ったらあかん」と言われてしもうて。中1の女の子やから、色んな思い出のものがあるんですわ。焼け跡からお雛様のいちまさん(市松人形)が出てきた時には、悲しくて、悔しくて、泣きました。「これ、私のいちまさんやったのに」って。

その日は何も持たずにおばさんの家に泊めさせてもらい、すぐに母の実家の千種に疎開しました。

母が天理教ですから、ちょうど十日祭にあたる7月2日に千種から姫路に戻って父の本葬をしました。そしてすぐに千種に戻ったあくる日、姫路は大空襲を受けるわけです。あと1日ずれていたら、私らは2度目の空襲に遭っていました。

母が「もう何もない。なんにもないんや。自分が持つべき以上のものを持ってたんや。それを手放しただけや。これできれいになってよかった」と、言い聞かせるように言ってたのが忘れられません。

戦争なんて、ほんまにあきません

いまはウクライナの戦争が問題になってますやろ。ああいうのをテレビで見ると、本当にいたたまれない気持ちになる。ほんまに、地獄やと思います。

神戸の震災の時もあちこちの建物が倒れ、火で焼かれ、かわいそうやなあ、辛いやろうなあって。

ほんまにね、戦争なんてしたらあきませんねんって。権力者たちの好き勝手して、辛い目悲しい目にあうのは、私らみたいなもんやから、ほんまに、あきません。

そのあとも、生きていくと色んな大変なことがありました。でも、あれだけの大変な思いをしてきたから、ちょっとやそっとのことは我慢できる。本当ですよ。

今は、子や孫らが本当にやさしくしてくれて、幸せに思います。子どもが3人、孫が6人。ひ孫がひとりで、もうすぐ2人目ができそうです。みんなやさしくて、困ったこと言う子もおらんし、それだけが宝です。

でも、戦争の時にあんなことがあった、こんな目にあったっていうのは、実はそこまで話したことありません。多分、これだけのことを話したのは今日が初めてやないでしょうか。

あの怖さ、あの辛さを、自分の中で、あんなんやったなあ、こんなんやったなあって、時たま思い出したりします。この年になるとね、余計にそう思いますわ。


姫路市の手柄山公園の中には、日本全国の空爆で命を落とした人を供養するための慰霊塔があります。毎年10月26日には「追悼平和祈念式」が行われ、数日前からは慰霊塔のライトアップが行われます。素心は、世界の恒久平和と、先の大戦で命を落としたすべての人々のご冥福をお祈りいたします。

▶慰霊塔・平和祈念式典についてはこちらから。


取材・構成・文 玉川将人

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