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どうして「南無阿弥陀仏」はありがたい?- 布教使に訊く“六字のことば”が持つ力(前編|通夜布教をお聴聞)
2023年5月21日。
親鸞聖人は
850回目の
誕生日を迎えます。
日本全国の
門徒さんや信者さんが
本山の、あるいは
地域のお寺で
親鸞聖人とのご縁を
喜び、讃えています。
親鸞聖人といえば
南無阿弥陀仏。
どうして
たった六文字のことばが
こうもありがたがられて
いるのでしょうか。
前年の9月
姫路市のお寺で行われた
「朝まで法話の数珠つなぎ」
そこで目の当たりにしたのは
教えを取り次ぐ布教使と
それをお聴聞する人々の
「信仰心」そのものでした。
※この記事は、浄土真宗の素人である筆者が、その教えの本質に迫っていく模様を描いています。教義や解釈にズレがあるかもしれません。あらかじめご了承下さい。
浄土真宗は“ことばの宗教”だ
『こころね』を始めて2年3か月。
その間、さまざまな宗派のお坊さんを取材してきて、その中でなんとなく分かってきたのは、「浄土真宗は“ことば”の宗教だ」ということ。
南無阿弥陀仏。なんでもこの6文字が、絶対的な力を持つのだそうです。
特に、浄土真宗本願寺派(通称「お西」)は、宗門の中に伝道院と呼ばれる布教使養成機関があり、布教使のネットワークも全国津々浦々にまで行き渡っています。まさに“ことば”だけで教線を拡大してきたと言っても過言ではありません。
真言宗や天台宗には密教儀礼があり、禅宗には坐禅がある。これらは文字やことばを超越した世界へのアクセスのための手段だとも言えます。
『法華経』を重んじる日蓮宗や法華宗も、『法華経』に書かれた「ことば」を大切にするものの、一方で、現世利益に訴えるための祈祷も積極的に行っています。
また、親鸞の師である法然を宗祖とする浄土宗は、ともに「南無阿弥陀仏」の念仏を第一とするものの、戒律を重んじ、霊魂の存在を否定しません。
これらに対して、浄土真宗はただただお念仏。「南無阿弥陀仏」の6文字を支えに、800年という長い歳月の中でたくさんの人々を救ってきました。
浄土真宗の本尊の阿弥陀如来さまは、次のような誓いを立てて、仏さまになられたのだそうです。
わたしが仏になるとき
すべての人々が心からわたしを信じて、
わたしの国(極楽浄土)に生れたいと願い
わずか十回でも念仏したにも関わらず
もしも極楽浄土に往生できないようなら、
わたしは決して、仏になりません。
ただし、五逆の罪を犯したり、
仏の教えを謗るものだけは除かれます。
『仏説無量寿経』(一部筆者意訳)
阿弥陀さまは、どんな人でも必ず救うことを誓われて、仏になった。
「南無阿弥陀仏」を称える者は、出家をしようとしてまいと、どんな人でも必ず救って下さる。
救いにはただ「ことば」があればよく、その「ことば」を通じて自らの信心に迫る。
それこそが、親鸞の思想、生き様であり、浄土真宗の、分かりやすくかつとてつもなく奥の深い教えの真髄なのだろう。
2年3か月を経て気づくことのできた、筆者なりの理解です。
親鸞に、引き寄せられている?
幼いころから、常に「何者かになろう」として、「なるんだよ」と諭されてきました。
学校ではテストの高得点を取るやつが評価され、足が速いやつ、笑いがとれるやつこそが人気者でした。
将来の夢を書かされて、理想の自分を掲げることは、教室の中の当たり前の光景だったように思います。
職場では業績が可視化され、「売れる営業になれ」と発破をかけられ、「なれるんだ」と鼓舞してきました。
健康診断では健康状態が可視化され、「数値を改善しろ」と促され、プロテインを飲んだりもしてみました。
なりたい自分になる。努力を積めば必ず光が当たる。そう信じて、毎日がむしゃらに、歯を食いしばり、学校で、職場で、人間関係やコンプレックスに自分の魂をすり減らしている。そんな人もきっと少なくないのでは。
理想や目標に邁進する生き方ももちろん尊いわけですが、でもいつか、壁にぶち当たる。
「自分はああなりたい。でもなれない」
「世の中はこうあってほしい。でもそうはならない」
800年前、きっと若き日の親鸞も、比叡山上で同じような苦悩を抱えていたのでしょう。
「悟りたい。でも悟れない」
「救われたい。でも煩悩がとめどなくあふれる」
『こころね』を始めて、たくさんの浄土真宗のお坊さんとご縁を結ぶ内に、「親鸞という人を追いかけてみたい」という想いが芽生えてきました。
と同時に、
「親鸞に、引き寄せられている?」
そんな不思議な感覚が、私を包み込んでいたのです。
宗祖に共感を覚えるだなんて、おこがましいかもしれません。
でも、仏壇仏具店の社員である私は、営業先のお寺に訪問しては、仏具のセールスそっちのけで、その共感を熱く語ってしまっていたのです。
仏の教えを「法話」で届ける布教使たち
南無阿弥陀仏。口で言うのは簡単ですが、仏さまを心から信じられるか、と問われると疑わしくなるものです。
そんな私たちに、この六文字の意味やありがたさを説くのが布教使の存在。浄土真宗の布教の軸は、まさにこの布教使たちによる「法話」です。
前年9月、姫路市の法性寺(浄土真宗本願寺派)で行われた「香光布教団お待ち受け法要-朝まで法話の数珠つなぎ」。
香光布教団とは、浄土真宗本願寺派兵庫教区に在籍する布教使たちの有志団体。
夜通しでつなぐリレー法話、いわゆる「通夜布教」は、毎年1月15日の夜から親鸞聖人の命日である1月16日にかけて、本山・西本願寺でのみ行われており、末寺で行われるのは珍しいとのことです。
「なんとまあ、ストイックなことをするなあ」
「本当に、お聴聞の人はいるのだろうか」
興味半分疑い半分の心持で、当日は筆者も一眼レフを下げて、夕方6時から翌朝7時まで寝ずに取材しました。
当日の法性寺(姫路市亀山)
実際に足を踏み入れてみると、「満堂」とは言えないものの、座席は常時30人から50人くらいの人で埋まっていました。
これが深夜2時になっても4時になっても、人の入れ替わりこそあるものの、全体の数が変わらないから驚きです。
深夜1時45分の様子。
昼間は日勤をこなし、そのあとの徹夜の取材。さすがに疲労と眠気が襲ってくるものの、妙なテンションの中、布教使が語る親鸞の生涯に思わず頷き、その教えの“お味わい”というものを舌なめずりしてしまいます。
法話の前後、必ず「南無阿弥陀仏」の六字名号に礼拝する布教使たち。
白板を使った熱心な講義。浄土真宗が“ことば”の教えだということを改めて感じ入る。
スクリーンに映された御絵伝を示しながら、親鸞聖人の生涯を伝える。
中には、日常生活で起きた身の回りの出来事から、浄土真宗の教えを説く布教使もいた。
お聴聞をしていて驚いたのは、聴衆側の熱心さです。
手に合掌をして法話に耳を傾ける人。熱心にメモを取る人。眠い眼をこすりながら、その信仰心の篤さに胸をうたれます。
無意識のうちに、掌を合わせている光景を何度も見た。信仰がからだの髄にまで染み込んでいるようだった。
何人もの人が、メモを取りながら法話を聴いていた。
お坊さんの話をここまで熱心に受け取ろうとする世界があること自体に、筆者は驚いた。
法話は浄土真宗で長く続く伝統的な布教スタイル。この夜も、35名の布教使が、「南無阿弥陀仏」ということばのありがたさを、それぞれのことばでお聴聞の人たちに伝えます。
この場に立ち会うことで、800年以上続く伝統のすごみを、なんとなく理解できたような気がします。
でも、私の中では、
「どうしてたった6文字のことばで、この私が、この身このままで救われるのだろうか」
そんな疑問が頭の中に貼りついたままで、取材を終えても、この体験をどう記事にすべきか考えがまとまりませんでした。
法話という伝統文化のすばらしさは感じられたものの、そこで語られる「南無阿弥陀仏」がどう私を救ってくれるのか、釈然としないのです。
そうこうする内に、秋は冬となり、やがて春が来て、それぞれの本山寺院が慶讃法要を営み、あっという間に親鸞聖人の誕生日である5月21日はすぐそこ。
「いまの自分の疑問を正直にぶつけてみよう」
そう思い立った私は、通夜布教の演壇に立った3名の布教使のもとを訪れて、このような質問を投げかけてみました。
「どうして“南無阿弥陀仏”は、ありがたいのですか?」
「後編|布教使に会いに行く」に続きます。
▶香光布教団Facebookページはこちら
取材・構成・文 玉川将人
※この記事内には、浄土真宗の教義や歩みに対して、筆者独自の解釈が含まれている場合があります。正しい教義や歩みについては、真宗僧侶の方々などを通じて、ご自身で受け止めていただければ幸いです。